私がもっとも注目する建築家の一人である坂口恭平さんが『0円ハウス』(asin:4479391673, asin:4898151175, asin:4899980884)に続いて、独創的な視点からの斬新な調査結果に基づいた新たな建築ルポルタージュ『一坪遺産』を世に問うた。彼を建築家と呼ぶには抵抗があるかもしれない。むしろはっきりと反建築家と呼んだ方がすっきりするかもしれない。しかし、ポイントは建築物に関してわたしたちが囚われがちな空間の大きさや広さの感覚を根本的に変えることに関わるので、やはり彼は正真正銘のすぐれた建築家なのだと思う。広さや大きさは物理的性質ではないと考える彼は、新たに建物を建てる必要を認めない建築家であり、実際に建築物を作らない建築家である。彼が志向する理想の建築物が身体の自然な延長線上にデザインされる無駄のない着心地の良い衣服のようなものだとすれば(彼はそれを巧みに「巣」と表現したりもする)、従来の建築物は身動きもままならない無駄の塊としての重たい鎧のようなものである。人が本来生きるための空間とはどういうものかを小学生の頃から実践的に探究してきた彼は、空間の大きさや広さが有限な物理的属性に縛られたままではなく(それが未だに巨大化、高層化を志向する現代の建築的常識が依拠する考え方である)、見方、考え方次第でいかようにも変化しうる心理的属性であることを多くの体験を通して実感してきた。物理的にはいかに小さく狭い空間であろうとも、心理的には無限大にもなりうるというわけだ。そんな彼の建築に関する提案は、色んな面で行き詰まっている現代社会とそこで生きる私たちにとっての有効な処方箋ともなりうるものだ。
本書に関する彼の言葉を引用しておこう。
これから必要なのは、広い空間、巨大な建築ではなく、広く、壮大に感じることのできる感覚と、そして小さな建築である。昔、自分がもしも虫ぐらいの大きさだったら、世界がどんなふうに見えるのだろうといつも僕は空想していた。そう、あの感覚である。そして、それは子供だけでなく、実は全ての人が持っている感覚なのではないかと僕は思う。
そんなことを頭に思い浮かべながら僕は東京を歩き、建築を作るという方法ではなく、欠如を栄養分にして新しく生まれた空間を探し続けた。すると、隙間の無いコンクリートジャングルであると思っていた街の中で、一坪にも満たないような小さな場所に、ひっそりと、しかし確実に存在していたのである。
僕はそんな空間を、
「一坪遺産」
と名付けた。
それは、ピラミッドのように長い時間を経ても無くならないような頑丈なものでもなく、存在していても気づかずに通り過ぎてしまうような、見えにくいものである。しかも、この本に登場するものは見た目には屋根も壁もない、とても空間とは言えないようなものもある。しかし、そういうところですらも、自分の巣のように感じることができるのが人間の面白さだ。考え方ひとつで、世界を無限大に感じることができるのである。
目に見えない空間を視点を変えるだけで体感的に作り出すことができる、太古から続くこの人間の根源的な能力をこそ、「一坪遺産」とも言える。
一見、ただの子供の遊びのようにしか見えなくても、空間を作り出そうとしている創造的な作業だと多くの人が感じることができたならば、いつの日か、何も建てずに、作らずに、持たずに、暮らしていけるようになるだろう。それは僕にとっては決して夢物語ではない。なぜなら、そのほうが現在まで続けられている方法よりも、人間の頭と体だけを使うのだから、手間もお金もかからず、そして限界というものがないからだ。目の前にある有限の空間だけをただ体験するのではなく、人間はそれを各々の思考で捉えることでどんなものにでも変化させることができるのだ。
どんなに超高層ビルを作り上げたとしても、それ以上の高さから見ることのできる想像力を私たちは持っているのではないか。(中略)
何も建てずに、空間が目の前に広がっていることを体感させる。もうこれ以上建築物なんか作る必要はない。今、必要なのは頭の中にでっかい都市を作り上げることだ。
それがこの本で僕が言いたいことである。(7頁)
彼の公式ウェブサイトにはきわめて象徴的な「家族」の写真が使われている。赤ん坊をだっこした彼と妻の余分と無駄を削ぎ落としたような清々しくも毅然とした豊かな佇まいは、彼がいう「巣」のような家の本質を表わしているかのようだ。