チェーホフの「庭」


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「ぼくは文学者にならなかったなら、園芸家になっていた気がします」という言葉を遺したチェーホフは、30歳の時にシベリアからサハリンを旅して(その動機には不透明なものを感じる)、医者兼作家らしい、驚くほど綿密な記録を残した。本書『サハリン島』ではそれまで半島だと信じられていたサハリンが島であることを最初に証明したのは間宮林蔵であることまでしっかりと記録しているほどだ(20頁)。

しかし、彼の視線は人間観察においては類い稀な客観性と繊細さを発揮する一方で、自然に関しては「ロシア的風景」を偏愛し、それに収まらないサハリンの自然を拒絶しているところが気にかかった。32歳の時にチェーホフは待望の地主屋敷を借金をしてまで購入し、以降「園芸家」はだしの実践を試みる。地主屋敷といっても、面積は七十万坪、2km²を越える。北大キャンパス(面積1.7km²)よりも大きい。したがって、「園芸」とは言え、その視野と設計思想は、今日でいえば、都市計画に匹敵するスケールのものである。そこに、例えば『桜の園』に繋がるような、お気に入りのサクランボなどを大量に植樹した。



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 チェーホフは「文学者にならなかったなら、園芸家になっていたのではないかという気がします」と手紙に書いているほど園芸好きで、手をかけて植物を育てることによろこびを見出した。めずらしい園芸植物の名は知っていても、野草にはあまり関心がなく、手をかけた分みごとな花を咲かせるバラがとくに好きだった。ロシアの自然を愛したが、「ぼくはロシアで領地(イメーニエ)とよばれているものが大好きです。この言葉はまだ詩的な語感をなくしていません」と書いたように、もっとも心ひかれたのは地主屋敷(ウサージバ)の風景だった。地主屋敷とは、ロシアの地主貴族が田舎に所有していた領地の中の邸宅、離れ、納屋、厩舎(きゅうしゃ)などの付属建物、並木道のある庭園、菜園、果樹園、その背後にある庭園林(パーク)をいい、それにつづいて森や川や野原のある村々や耕地、牧場などが広がる。チェーホフの作品には地主屋敷がしばしば出てくるが、とくに戯曲の舞台のほとんどは地主屋敷の庭と邸宅である。

 小林清美『チェーホフの庭』(群像社、2004年刊)11頁

かつてチェーホフが住んだモスクワ郊外のメーリホヴォ(「メーリホヴォ」という地名は、昔から養蜂業が盛んだった土地柄から、密源植物のメリッサ(Melissa officinalis, レモンバーム)に由来するらしい。本書70頁の「古老の話」より)の地主屋敷とヤルタの別荘が往時を忠実に再現する博物館として成立するにいたる紆余曲折した過程を主にメーリホヴォの庭に焦点を当てて詳細に追跡した小林清美の労作『チェーホフの庭』(群像社、2004年刊)では、メーリホヴォの庭を再現するに当って作成された主な花のリストが紹介されている。

植物名 花期 学名(特徴)
アネモネ 4–7月 Anemone coronariaなど
スイセン 4–5月 Narcissus
ジョンキル(芳香スイセン 4–5月 Narcissus jonqilla(細い葉、一茎に複数花をつける)
ヒヤシンス 4–5月 Hyacinthus
チューリップ 4–5月 Tulipa
スズラン 5–6月 Convallaria majalis
ケマンソウ 5–6月 Dicentra Spectabilis
フリチラリア 5月 Fritillaria
オダマキ 5–6月 Aquilegia
ラナンキュラス 5–6月 Ranunculus
シャクヤク(いろいろな種類) 5–6月 Paeonia
アイリス 5–6月 Iris
ニオイアラセイトウ(ウォールフラワー) 5–6月 Erysimun Cheiri(あまい芳香を漂わせる)
ダイアンサス(ナデシコ類) 5–8月 Dianthus
グラジオラス 5–9月 Gladiolus
ハナダイコン(ロケット・スウィート) 6月 Hesperis matronalis
ユリ 6–7月 Lilium
デルフィニウム 6–7月 Delphinium
ルピナス 6–7月 Lupinus
ナイト・フロックス 6–8月 Zaluzianskya capensis
ヘメロカリス 6–8月 Hemerocallis-hybriden
カスミソウ 6–8月 Gypsophila paniculata
スイートピー 6–8月 Lathyrus odoratus(芳香で名高い)
ヘリオトロープ 6–9月 Heliotropium peruvianum(芳香で名高い)
ハナアオイ(ラバテラ) 6–9月 Lavatera
ポテンティラ 6–9月 Potentilla
モクセイソウ(レセダ) 6–9月 Reseda odorata(芳香で名高い)
アスター一年草多年草 6–10月 Aster
ハナタバコ 6–10月 Nicotiana(日没後つよい香りを放つ)
トウゴマ 6–10月 Ricinus communis(葉を鑑賞する)
コチョウソウ(シザンサス) 7–8月 Schizanthus
キンセンカ 6–10月 Calendula offisinalis
オオイタドリ 7–8月 Polygonum sachalinense
ウスベニアオイ(コモンマロウ 7–9月 Alcea
セイヨウヒルガオ(カリステギア) 7–9月 Calystegia
ダリヤ 7–10月 Dahlia
百日草(ジニア) 7–10月 Zinnia
シュウメイギク 8–10月 Anemone japonica(またAnemone hupehensis var. japonica)
バラ 8–10月 Rosa
ムクゲ HIbiscus syriacus


81頁〜85頁


チェーホフは手のかかるバラの栽培に凝っていたせいもあって、他は「芳香のある、はなやかでない、育てやすい花」を好んだという(本書91頁)。日本では雑草扱いのオオイタドリ(私はその白い可憐な花が好きです。→ 写真)がリストアップされていることに驚かれるかもしれないが、3メートルに及ぶ丈の高さや30センチにもなる葉の長さなどから「竹を思わせる」エキゾチックな植物として、ロシアでは19世紀末から園芸界に広まりはじめ、またたく間に流行し、その種は高値で売買されたという(本書91頁)。

(つづく)


参照