荒野の決闘

山内さん、下川さん(id:Emmaus)、またコメント欄が次頁に隠れてしまったので、こちらに引用させていただきます。結構大事な話だと思うので。悪しからず。山内さんが登場してくれたのは、下のエントリーがきっかけでした。

魂と霊(2009年08月21日)

これに対するコメント欄において、せっかくの楽しい「デュオ」が俄に「荒野の決闘」の様相を呈して来たと危惧した山内さんが、意を決してコメントしてくれたわけですが、、。

下川:三上さんとわたくしだけでない語らいで新たな光景が現れてうれしいです。
三上:いやあ、基本、一対一ですよ。
下川:そうかな?一対一。ボクはデュオよりトリオがいい。その場にもう一人がいるともっと膨らむ。ビルとスコットだけでなく、ポール・モチアンの存在は大きいよ。
三上:もっと手前の基本中の基本の話でさ、一対一できちんとものが言えないなら、ディオできんなら、始まらんだろう、と言いたいだけね。勇気と決断、あるいは愛と言ってもいいんだけどね。
下川:ボクがメールでなく、コメント欄にあえて書くのは、第三者というか我汝だけに閉じるのでないあるオーディエンスに開くものを描いて書いているわけで。このへんは三上さんもおわかりでしょうからね。
三上:んー、ちょっと分かりたくないな。我汝の関係は「閉じて」いるわけじゃないと思うよ。そこが関係の要じゃないかな。「開かれる」とか「理解し合える」、オープンとかシェアとか言うけどさ、そういうのって、予定調和的で、ぬるい感じがするんだよね。だから、矛盾しているように聞こえるかもしれないけど、ブログであっても、メールと変わりない地平で勝負するっていうかさ、ぼくの場合は、ブログとメールが、もちろん全面的じゃないけど、地続きなんだよ。どっちかというと、ブログのメール化に近いかな。「宛先のない公開お手紙」って感じ。
下川:わたしはデュオを否定するつもりは毛頭ない。
どうだろうやっぱり、デュオができんでトリオができるかという見取りはおかしい。多重というよりももっといえば多声(より肉声)表現はトリオにおいては自己と他者を夫々が経験化することが出来る。それによってデュオもより深まることが出来る。他者を聴くということが予定調和でなく、わたくしたちを調えてくれる。あくまでも調べとは自発的なもので、半端な理屈(仮説)を砕くものだろうと思う。

ここまでの「対話」に不穏な空気を感じとった山内さんがすばやく水を入れた。

デュオなのか、荒野の決闘(?)なのかよくわかりませんが、お二方ともご苦労様でした。
残念ながら、私は音楽の素養が完全に欠落しているため、トリオに参加することは出来ませんが、これからも二人でけんかにならない程度に仲良くデュオを楽しんでください。

しかし、三上は一歩も引かずに対話を続けようとする。

心配ご無用。百戦錬磨だからね。笑い。実際まだまだ「けんか」の域になんか達してないし、むしろ「けんか別れ」するくらいの覚悟がなければ、ここには、顔を出さない方がいいかもよ。で、音楽の素養なんて関係ないし。むしろ音楽の比喩が状況認識を曖昧にしかねないところがあると思うよ。ここは言葉による対話の場ですから、それを俯瞰して音楽の比喩で語ることは簡単だけど、地面に降り立ったときには、一対一の「タイマン」(http://zokugo-dict.com/16ta/taiman.htm)なわけで、傍観者の立場は取れないはずです。しかもそこで踏ん張ることが最低限の「倫理」っていう気がします。少なくともぼくはここで楽器弾いてるわけじゃないしね。下川さんの言い分はある意味で分かるんだけど、「半端な理屈(仮説)」に筋金を入れていくのが、大人の仕事だとも思うわけですよ。

その後、、

山内:よくわかります。「地面に降り立つ」という比喩がこの場合適切なのか、少し気になりますが、実際に行動を取る、起こすことに関連した比喩であればよく理解できます。ただ、私は「けんか別れ」する覚悟は別に持っていませんが。ここでの「地面に降り立つ」ってその程度の意味だと思いますよ。

三上:山内さん、肝心なこと書くの忘れてました。下川さんとぼくとは、けんかできるほど、すでに不思議にも、信頼関係ができてるってこと。にもかかわらず、お互いに譲れない線があって、それをはっきりさせようとしているだけね。でも、ブログやっていると、いろんなことがあるから、最初から最強の免疫力みたいな覚悟を持っておいた方がいいかも、という老婆心でした。

山内:若輩者が口を出すべきことではありませんでした。

三上:そんなことありません。どんどん口出ししてください。それでね、敢えて音楽の比喩で続けますが、下川さんとぼくの世界観の微妙な違いは、下川さんが、どちらかといえば、デュオ/トリオと分けた上で、トリオの「調和」の可能性、「われわれ」のチューニングを重要視するのに対して、ぼくは、あくまでデュオがトリオなりカルテットなり、多重、多声の基礎であって、デュオ(一対一)の深まりによって、トリオ以上のチューニングのレベルというかクオリティも変化すると考えています。分かりにくいかな?

その後、、、

山内:よくわかりますし、魅力的な解釈だと思います。ただ、一対一の関係が「デュオ」ではなく、(当事者同士が確認しあうだけに収まらず)単に優劣に固執した場合は、互いに駆逐しあい、全体としては不幸なものになるようにも感じます。そういう意味では傍観者の存在は意味があるように思いますが。

三上:山内さん、いやあ、いいとこ突いてくれました。笑い。ただ、もう少し微妙な線、隘路(あいろ)があってね、山内さんの挙げた線がAとBだとしますね、

A:一対一の関係が「デュオ」(当事者同士が確認しあうだけ)
B:単に優劣に固執する。

山内さんはBを危惧するわけですよね。ところが、AとBの間にいわば第三の道Cがあってさ、

C:第三の道。単に当事者同士が自分の立場を確認し合うだけでなく、お互いの立場を乗り越えて、場合によっては捨てて、第三の道、未知(ちょっと駄洒落です、失敬)の場に抜ける

これが、「深める」の意味だと思うの。もっとも、今回の「決闘」には色んな要素が絡んでいるから、あんまし単純化するのはよくないんだけど。