南無さんのブロガー脱皮論の地平

「太平洋イルカクルーズ」を読む(『南無の日記』2009-10-03)

から

マージナル・ソルジャーを超えてゆくもの−1(『砕かれた街』2009-10-03)

に飛んだ。


図らずも、南無さんによる「ブロガー脱皮論」の核心に触れることになった。大変面白かった。


後者では直接にはN氏こと根本正午氏に関する所詮マージナル・ソルジャーにすぎないブロガーから表現者=創造者への転位のポイントが主に言語の観点から説明されていたが、それはどんなブロガーにとっても他人事ではない問題だと思う。人は様々な動機、欲求、欲望からブログを始め、続け、中断し、止める。比較的長期間にわたってブログを継続し、一定数の読者を維持し続けている書き手をブロガーとしよう。南無さんの見立てによれば、ほとんどのブロガーはある本質的な問題を回避して、いわば卑俗なおしゃべりに耽っているにすぎない。その本質的な問題とは、「自己存在の確証への欲求ともいうべき問題」である。あるいは「世界にあるおのれの不可視の存在を視る」欲求ともいうべき問題である。


南無さんが指摘する「問題」は、己の存在を安心して安全に担保することなどできない場所、時点から始まる本質的に不安な、危険な探究であるといってもいいだろう。その場合には己の存在は「不可視」であらざるをえない。あるいは、生成変化しつづけるプロセスそのものを「視る」ことができるような「動体視力」を養わねばならないとも言えるかもしれない。目が見るようには視ない、目が見ないように視る視力である。南無さんがわざわざレヴィナスの「芸術的想像力」に関する件を引用したのは、レヴィナスは芸術と称するに値する「作品」とはそういう視力で見られた世界の姿であることを喝破していたからに違いない。


そのような<欲動>に突き動かされた者は、社会的慣習を保守的になぞり反復する安全な主体から、レヴィナスが言うところの「現実よりも現実的な」ものを目指す「芸術的想像力」に駆られた不安な主体へと転位する。転落する。見かけはどうあれ、私の見るところ、南無さん自身が、複数のブログを並行して継続しつつブログの中でブロガーから脱皮するという離れ業をやってのけている稀有な人だけに、その「ブロガー脱皮論」には説得力がある。私は私で全く違う道をたどって、違う言葉遣いで同じような道を目指してきた。ブログだろうが何だろうが、綺麗事で済むはずのない「書くこと」と「つながり」の隘路というか距離を曖昧に短絡したくないし、相変わらず、本質的につながらずに済むような囲い込まれたつながりは悪くはないけどつまらないと感じている。