写真の詩と真実

本来の文脈から切り離しても、かなり腑に落ちる言葉の引用。

雨期の写真術は 自分が雨に濡れること(藤原新也『全東洋街道(上)』asin:4087505634、255頁)

 思考によって目の前の事実と向かい合ったとき、私はしばしば世界の醜悪さを見せつけられ、逃げ場を失う。醜悪な現実や暗い出来事のはびこるこの閉塞の時代においてはなおさらのことだ。だが意味から逸脱した眼はそのつどたくましく目の前のものを肯定し、そこに美や生命力やその存在価値を見出そうとする。この満身創痍の時代に私が生きのびてきたのは性善説によって成り立つその眼を持っていたからのように思える。(藤原新也『渋谷』asin:4487801265、146頁〜147頁)


 撮影という行為は撮られる人にスポットを当て、世界の中心に立たせる行為である。(中略)写真とは文章や絵といった他のメディアと異なって、目の前にある”いま”を写しとり、表現するメディアだ。つまり写真行為とは被写体となる人の”今現在の姿を肯定する”行為でもある。(同書222頁)


 写真を撮るという行為は逆にその”いま”という時間内にしか成立しえず、いまの瞬間を写しとり、承認を与える行為なのだ。現代社会では困難になりつつある”いまの姿に承認を与える”という行為が、写真という機構の中にはおのずと存在しているわけだ。(同書223頁)


 写真を撮るという行為は今の姿にスポットを当て、彼女たちの存在を肯定する行為であるとともに、一切の社会的約束事を排除する行為でもある。そこにあるまなざしは、彼女らの生まれ、育ち、学歴や成績、そして彼女が何歳であり、どのような名前を持つのか、という基本的情報すら必要としていない。そのまなざしは、一切の既成概念を排除し、ただひたすら目の前にあるものの本来の姿を見つめ、引き出そうとするある意味で非社会的なまなざしである。(同書226頁〜227頁)

写真家というものは、その一瞬一瞬、世界の誰よりも被写体に対し深く入り込まねばならない。しかし引きずってはならないのだ。入り込みながらもなにくわぬ顔ですみやかにその場所から立ち去るのだ。そして何事もなかったかのように次の女性や風景にまなざしを向ける。それはある意味ではむごいことなのだが、そんな過程を経ながら写真は進化するものなのだ。(藤原新也『コスモスの影にはいつも誰かが隠れている』asin:4487804183、105頁)