世界は複雑なかたちのリースのように、どこまでもつながっている


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昨日、寒い部屋で、冬のアイルランドを舞台にした藤原新也の長編小説『ディングルの入江』(1998)を姉妹編の写真集『風のフリュート』(asin:4087831175、1998)を脇に置いてじっくりと読んだ。部屋の寒さを忘れた。「小説」と言っても、著者本人が語るように、それは「旅行記であるとともに長編詩であり、また小説でもある」という複雑な成り立ちをしている。さらに、実際に二度訪れたアイルランドの荒涼地を「長編詩に置き換える」すなわち「この地を舞台に、自分のこれまでの旅で得た世界観のようなものを長編詩で表現してみたい」という著者の明確な意図も語られている(「文庫のためのあとがき」291頁〜292頁)。だが、旅行記、小説、長編詩と分ける必要のない位相において優れた「物語」であると感じた。


藤原が「これまでの旅で得た世界観」は、「私」が自らのルーツを確かめに米国からやってきた老年のアメリカン・アイリッシュのライリー夫妻とともにブラケット島に渡る舟の上で、その舟の持ち主である漁師の口を通して、昔同じように舟で案内したゲール語の花の名前を調査するためにブラケット島に渡ろうとする植物学者の男が語ったという次のような考えとして語られる。

世界のすべてはあちこちでつながっている。だからその一部だけを知ったって、それを本当に知ったことにはならないと。シャムロック*1の花の名前を本当に知るには、その花を咲かせる季節のことや空の名前のことや、やがてそこに飛んでくる蜂や蝶の名前、そしてそれを摘んで複雑なかたちのリースを作り、髪に飾るときに少女が口ずさむ歌の名前も知らなければならない。それからその少女の名前。できうるなら少女の両親や彼らの住んでいる土地や祖父母の名前がわかればもっと好ましい。なぜならシャムロックのリースの作り方は祖母から母へ、そして少女へと伝えられていったに違いないからと。このように、春の空の下、どこの空地にでも咲く花ひとつで、世界というものは複雑なかたちのリースのようにどこまでもつながっているんだと。そしてその複雑なリースのあらゆる部分には名前がくっついていて、それはもうひとつの目に見えない美しい言葉でできた大きなリースの輪を作っているんだと。そしてその目に見えるリースと見えないリースが互いに男と女のようにやさしく抱き合っていて、そこに人間の社会が生まれるとな。だから言葉が失われるとリースも失われるんだと。(112頁〜113頁)


いうまでもなく、世界観として語られるようになってしまった世界はすでに失われたか、失われつつある。しかも、それは最近の話ではなくて、旧約聖書の時代から始まっていたことがライリー夫人の口から語られる。

アダムとイヴが楽園を離れたときから人類はそのまま楽園から遠ざかり、廃園に向かいつつあるんだって。次々となにかを手に入れようとする人間の限りない欲望が、本当は次々と大事なものを手放し自分たちを追い詰めつつあるんだって。それはこの島からたくさんの人がアメリカに渡ったことと同じよ。(143頁)


つまり、「楽園」は、<ここではないどこか>にではなく、<いまここ>にある。人が一番焦点を当て難い<いまここ>にこそある。『ディングルの入江』の「入江」は、そのような、そこに目を向け入って行くことが最も困難な場所の隠喩であり、『ディングルの入江』は<いまここ>へ向き合おうとする「私」を含めた人々の物語である。したがって、藤原新也は「私」をアイルランドに留めず、「想いを断」たせて、二人の友の元から引き離し、日本に帰す。その後、藤原新也は日本といういまここを舞台にしてその閉塞状況に立ち向かうことになるだろう。


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*1:「シャムロック(Shamrock)とは、マメ科のクローバー(シロツメクサ、コメツブツメクサなど)、ウマゴヤシ、カタバミ科のミヤマカタバミなど、葉が3枚に分かれている草の総称である。アイルランド語でクローバーの意味のseamairまたは、若い牧草を意味するseamrógを、似た発音で読めるように英語で綴った語である」( シャムロック - Wikipedia