救い


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水俣病東京湾で起きたら、どうなっていたか。そう石牟礼道子は問う。国内のすべての原子力発電所およびその関連施設が東京湾岸にできていたら、どうなったか。同型の問いである。そうならないように、この国の高度経済成長は進行した。都市化と産業化の取り返しのつかないツケを払わされるのは地方であり、そのまたツケはいずれ都市にも及ぶだろう。

苦海浄土 第二部 神々の村』(2006)の「あとがきにかえて」の中で石牟礼道子は自らの作家としての来歴を振り返りながら次のように語る。

 文学の素養も、学問も、医学の知識もないただの田舎の主婦が、身辺の異常事態にうながされて、ものを書きはじめた。昔々であった気がする。たくさんのことを学んだ。人の一生というけれど、三世ぐらい生きたような気がするのは、死者たちと道づれになっているからかもしれない。
 これからも続くであろう水俣の受難の、ほんの入口にさまよいこんだまま終わることになるが、体力がない。入口ではあっても、人間存在の深部に、ある程度、身をおくことができたとおもう。みちびきの手が、いくつも用意されていたからである。
 そもそもは、頭の仕組みももやもやしていた十代の頃、「代用教員」をしていたかの第二次大戦末期、「国家と村と家、そして人間とは何か」などと考えはじめた身辺に、水俣病が出現したのが、運のつきだった。人間とは何かということが、十六、七の女の子にわかるはずはないのだが、戦争末期の田舎の村の姿は、そういう哲学少女を育てるに充分な光景となっていた。近代とは何かと考えるようになり、水俣病がその中に包摂された。もっとも主要な柱は「都市に対する地方」であった。
 この事態が東京湾で起きたら、こうはならなかったろう。幾度もそう考えた。受難者たちが都市市民であったら、どういう心の姿になっていただろうか。考えている間に、近代にはいる前の日本という風土が見えてきた。風土によって育てられていた民族。牧歌的で情趣に富み、まだ編纂されぬ神話の中にいるような人々がそこにいた。
 学校教育というシステムの中に組み込まれることのなかった人間という風土。山野の精霊たちのような、存在の原初としかいいようのない資質の人々が、数かぎりなくそこにいる。愚者のふりをして。(392頁)


こうして、彼女が立ち向かってきた相手は「都市/地方」として現象する「近代(化)」という暴力的本質全体として像を結ぶ。そして、近代に押し流され、押しつぶされ、見すてられた、すでにその多くは死者となった人々と共にあることを選択した彼女にとって、東京の繁栄が近代化の表の顔だとすれば、水俣病はその裏の顔、更に言えば、近代化した世界の真の姿の露呈にほかならなかった。

 「実子(みのるこ)」と娘に命名した由来を語って、田中善光さんは、かすれた声を押し出すようにいわれた。「日本の真実を、わが身に負うて、実子は生まれて来ましたが、なあ、真実ですよ水俣の姿は。逆世の世の中ですから……」
 大阪へゆく列車の音がごっとんごっとんと言っていた。
 たしかに、逆世の世の中である。二十世紀の終焉にとり憑かれた年月だった。気がつけばこの人たちは「もう一つのこの世」の遺民であった。受難の極にあるこの人々から手をのべられ、救われているのは、こちらの方かもしれない。
 まだあの魂の原郷は、あるのだろうか。(394頁)


この世とは思えない「逆世」、悪夢のごとき世界は、まぎれもなくこの世であり、「日本の真実」に他ならない。何の因果か、そこに遺され、受難の極に張り付けられた民の生死に寄り添いながら、石牟礼道子は眼を裏返すようにして、私たちの魂を金縛りにしている遠近法を逆転させ、現代世界における「救い」の意味を根底から捉え返す。苦海に「浄土」を、「魂の原郷」を見る目を光らせる。



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