お婆さん


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岡本太郎によっておよそ半世紀前に記録された「東北」、特にイタコとオシラ神の写真と文章に触れて思うところがあった(東北の自然と文化の底流をなし、現代の絵馬にまでつながる「あの暗いとさえいえる、生命力の炎の塊りのような動物」(57頁)である馬の表象の根源への鋭い眼差しについては別の機会に譲りたい)。岡本太郎は、イタコを通して、東北の、つまりは日本の女たちの「地母神」的原像を浮き彫りにして、此の世の過酷な運命を乗り越える「生命力」を透視しようとしたのだった。

 恐山の夜------かねて、おがさまたちは昼は心底から泣き、死者の声を聞いて、すぐその夜は、歌い、踊り、笑って、歓楽をつくすのだと聞いた。(『岡本太郎の東北』98頁)


その通りのことを恐山で体験した岡本太郎は、次のように語る。

 夜はお婆さんとともに、くろくふけて行き、婆さんは夜の闇とともにいきいきとひらかれてくる。
 夜は女の世界、女は夜の生物だ。昼間は彼女らはババアである。現実の悲しみが重い表情にとじこめている。だが夜------いわば根の国、常夜、闇の国、そこで女性はギラギラと輝きはじめるのだ。
 地母神という言葉がどこから来たのか、私は知らない。だが東北のお婆さんたちのこの姿を見ていると、まさに、”地母神の祭典”だ。豊かに生命を産み出す大地であり、またその底に葬り去る------。
 恐山でも川倉でも、死霊の住む場所だ。男たちは恐しくて泊まっていられないというのに、婆さんたちは深夜にサイの河原をさまよい、混沌と対話していきいきするのだ。
 それにしても、こんなにも沢山、なまなお婆さんの姿を見たのは今度の旅行がはじめてだ。今まで私にとっていちばん縁の遠かった存在------だがこの夜、この瞬間におどる彼女らの生命の、悲しさと嬉しさ。それが異常にひらく姿を見ていると、私は魂の底からゆさぶられる。そして常の日の彼女らの生活の重みが、グイとせり出してくる思いがした。
 そういえば、彼女らについて私はあまりにもウカツだった。いや私ばかりじゃない。日本の歴史、文化が、不当にそのいのちを無視して来てはいないだろうか。クソ婆ァ、意地悪ババァ、とロクな言葉がない。ポピュラーな昔話でも、ツヅラを背負った因業婆ァで、その役割のゆがみは残酷である。
「お婆さん」、つまりは日本の女性の運命、その生命力について、掘り下げてみたい。それはわれわれの共通の、根深い、緊急の課題ではないか。(『岡本太郎の東北』102頁〜103頁)


やや性急で図式的なきらいは否めないが、当時の岡本太郎の問題意識はよく伝わって来る。最近、自分の中で「お婆さん」が大きな主題として浮上してきたことが、本書に出会うきっかけを作ったのは確かだった。散歩で出会った「めんこいねえのおばあさん」をはじめとするお婆さんたちや、最近姜信子さんの旅物語で出会った「ナミイおばあ」の肉体の衰えとしての老いをカバーして余りある精神の若さ(賢さ)、近年問題視される父性と対比される母性とは次元の異なる非常に逞しい生命力溢れる存在感。そんな思いの延長線上にごく自然に東北出身の祖母の姿や二ヶ月前に生まれて初めて下北半島を含めて青森を巡った時に出会ったお婆さんたちの姿、そして訪ね損なった恐山のイタコの心象がぽっかりと浮んでいたのだった。