喰い残しの歌


『風の旅人』 37号 - FIND the ROOT 永遠の現在 - 時と悠


新約聖書ヨハネによる福音書で描かれた世界のはじまりの光景には前史がある。旧約聖書の創世記である。偶然のような必然だったが、『風の旅人』(2009年6月、37号)に掲載された姜信子さんのエッセイ「取り返しのつかない話」(97頁〜100頁)を読んでいたら、旧約聖書の創世記で描かれた天地創造の原初の情景が、新約聖書ヨハネによる福音書によって大幅に脚色されているという指摘がなされていて腑に落ちるところがあった。「取り返しのつかない話」は、糸満市の米須とひめゆり平和記念館を訪ねた「私」が引き寄せられた犠牲者の記憶の闇、そして、ある男が語った済州島の虐殺事件の犠牲者の記憶の闇、を巡る。「私」の耳の奥で鳴り止まぬ「喰い残し」の歌が印象的だ。

 我親喰(わうやくわ)たる あぬ戦(いくさ) 我島(わしま)喰たる あぬ艦砲
 うんじゃん わんにん いゃーん わんにん 艦砲ぬ喰ぇーぬくさー
(あたなも私も おまえも私も 艦砲の喰い残し)(98頁)


そして「私」は気づく。

そうか、私も喰い残しのひとりなんだ、そんな思いがストンと落ちてきた。(99頁)


同じはずの人間によって、そしてさらに歴史によって「喰われた」人々、犠牲者たちの「語られることのない記憶」という一種の闇が、ヨハネによる福音書において「言葉(ロゴス)」の世界の奥底に封じ込められてしまった旧約聖書の創世記の闇に重ねられる。そんな闇を覗かなくてすむならそうしていたい、新約聖書的な光の中に安住していたい「私」は、しかし、すでに取り返しがつかない場所にいる、、。旧約の創世の闇が新約の言葉、光によって「語りえぬもの」として封印された過程を姜さんは次のように訴える。

 旧約聖書、創世記の冒頭に曰く、


 初めに、神は天地を創造された。地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。神は言われた。
 「光あれ。」
 こうして光があった。神は光を見て、良しとされた。神は光と闇を分け、光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。


 この大地創造の素朴な情景が、エデンの園という前頭葉を獲得した者たちの子孫が後に残した新約聖書の「ヨハネによる福音書」では面白いくらい立派に描きなおされているのを、あらためてつくづくと知りました。


 初めに言(ことば)があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらず成ったものは何一つなかった。言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。


 神という存在ただひとつを除いては、見事に言(ロゴス)で組み立てられた世界。神という偉大なる唯一の余白のほかには、語られえぬ余白などこの世界には存在しない、存在してはならないのだと、罪深い前頭葉は書き記す。創世記では、ただそこにあっただけの光と闇に、言(ロゴス)は意味を与えた。
 「暗闇は光を理解しなかった」。こう記したとき、その言(ロゴス)によって、故意か過失か、前頭葉はもっとずっと大切なことをきれいに隠してしまって、そのうえ、隠したことすら忘れてしまった……。
 光は闇を理解しなかった。言(ロゴス)は闇を語りえなかった。語りえないものは存在しない。語りうるもののみで言(ロゴス)が世界を描きなおした。言(ロゴス)の世界の奥底に闇を封じ込めて、言(ロゴス)の底で疼く闇……。
 
 (中略)

 言(ロゴス)は闇を語りえない、そのことを遥かな時を越えて思い出したばかりの私は、真っ白な闇を確かに男から手渡されたということに気づいたそのとき、同時に、闇を語り闇とともにある言葉を自分が持たないことにも痛切に気づいていました。だから、とんでもなく取り返しのつかないことになったような心持ちにもなった。
 このままずっと闇の言葉を持てないかもしれないという不安と重荷から逃げ出して、光の中に安住していたい自分を、今となってはもう逃げ出せなくなっている自分も、私はいやになるほど知っているのです。(99頁〜100頁)


関連エントリー