土門拳『生きているヒロシマ』(1978)を見ながら、藤原新也の『花音女』(2003)を思い出していた。前者において原爆によってこの世の瀬戸際に立たされた少年少女を含む人々の姿が、後者において経済的繁栄の中でこの世の瀬戸際に立たされた少女たちの姿と重なった。藤原新也が語るように職業写真家には場合によっては写真を撮るという行為の「暴力性」に対する葛藤が付きまとう。一枚の写真も撮れずに現場を後にすることもある。しかし、そんな「暴力性」の裏に潜む「聖性」が顕在化することもある。圧倒的に絶望的に思われる状況に置かれた相手のまなざしに対峙する写真家の「まなざし」が彼や彼女を救うということが起こりうる。そんな瞬間のまなざしの交流を、藤原新也は相手とともに飲み干す「聖杯」と表現した。
聖杯とは一方が一方に与えるものではなく、お互いが同時に飲むものである。人はその同一体験の中でこそ解放され、自身が他者から受け取りたいと願っていた、そして自身が他者に送りたいと願っていたまなざしを身体の奥深くから導き出す。(藤原新也「失明少女たちへ」、『花音女』所収)