底、裏に触れる













社会の底、歴史の裏。心の底、心の裏。言葉の底、声の裏、根。視線の先、瞳の奥。そんな場所に強く惹かれる自分がいる。その人が生きて来た道筋。その幾筋もの軌跡や行き止まりや袋小路の景色に思いを馳せ、その音色に耳を澄ます。時に背筋に電気が走る。痺れる。自分の今までの人生に思いも寄らない角度から光があたる。空路札幌から東京へ飛んだ。新宿でも上野でも高層ビルや消費生活にあくせくする人々のすぐ傍の見えない境界の向こう側で生業をたてる路上生活者たちや彼等の作ったブルーシートの家に目がとまる。すれ違い様に間近に見る彼等は国内の越境者、異民族にさえ感じられる。東京のHASHI展で遭遇した姜信子さんから手渡されたCD『ナミイ!』を旅の道連れに加えて,さらに東京から山口に飛んだ。鉄路を寄り道して門司港まで走った。門司港の防波堤にしばらく佇んでいた。藤原新也『鉄輪』で綴られたこの世と浄土とが二重露光のように重なる心象風景の一端に触れようとしていた。門司港から折り返して、薄暮の中、瀬戸内沿いを周防大島に架かる周防大橋のある大畠まで各駅停車の列車に身を預け心も揺られていた。窓越しに駅名をチェックしていた。幾つ目かの駅名「光」が目に飛び込んできた。そんな名前の土地があったとは。光。自分の心の底、裏にも一瞬光が射した気がした。幻想でもいい。陽が落ちてすっかり暗くなった大畠駅前でしばらく呆然としていた。周防大島(すおうおおしま)行きのバスはもうない。レンタカー屋も終わっている。仕方ない。タクシーに飛び乗った。沖家室(おきかむろ)まで行くんですか! と驚かれる。鯛の里ですか! と続けて驚かれる。宿の前までは車は入れませんよと念を押される。いいから、行って下さい! 周防大島の属島である沖家室島の「鯛の里」で松本昭司さんが待っている。宮本常一の十万枚の写真の意義と十年前の「大往生の島」(佐野眞一)の十年後の現在に対する興味が私をそこまで駆り立てた。大畠駅のひとつ手前の柳井で、到着が遅れる旨の連絡は入れたものの、午後7時着の約束をすでに過ぎていた。タクシーは周防大橋を渡り、周防大島を北から南へと縦断する近道だという農道を飛ばす。他に車は走っていない。沖家室大橋を渡り、海岸沿いの道を速度を落として少し走る。運転手さんがここらへんだと思うという「泊清寺入口」の看板の立つ場所でタクシーを降りる。午後8時を過ぎていた。暗闇の中で松本さんに携帯電話をかけ道を尋ねる。宿の目印のネオンサインが見えるはずだという。真っ暗な路地の奥に目を凝らすと確かに微かに色とりどりのネオンサインが見えた。それを目指して歩き出す。おお、ここが鯛の里か! 通常予約は二名以上で、その日は定休日で夕方まで所用で出かけていたと後で知った。松本さんは私の素性を詳しく知ろうともせずに、私の「宮本常一を敬愛する者です」の一言に「晩飯を一緒に食って、酒を飲みながら、宮本常一について語り明かしましょう」と快く応じてくださったのだった。私にとっては願ってもない申し出だった。しかし実際には新鮮な鯛の刺身や牡蠣鍋まで振る舞ってくださった。そして一部では有名になった体重計に乗っかった樽生ビールを飲みながら、鯛の里が事務局になっている郷土大学、宮本常一の十万枚の写真が収蔵されている周防大島文化交流センターの実情、「世間師」としての宮本常一佐野眞一の素顔、そして宮本家などに関する貴重な話をたくさん聞くことができた。「土佐源氏」が話題になったあたりから、次第に二人とも酔いがまわって来て、話題は多岐にわたり、幼い頃の話や人生の転機の話、自分の子供たちの話、そして最後は好きな音楽の話になり、ギタリストになることを夢見た松本さんの少年時代の話が爆発し、70年代のジェフ・ベックや寺内たけしのLPを、家全体が共鳴して振動するほどの超大音量でかけまくり、ノリノリになって、大声で何かを語り合っていた。そのうち二人とも正体不明ギリギリのところで、私は姜信子さんに託された旅の道連れ『ナミイ!』のCDのことを思い出して、松本さんにかけてもらった。松本さんは「いいねえ、いいねえ」と敏感に反応した。私たちはさらにハイになって、時間を忘れていた。いつの間にか沈没していた。私は7時ちょうどに目が覚めた。まさか、と思ったが、松本さんは昨夜とは別人のようなしゃきっとした顔ですでに厨房で朝飯の支度をしていた。5時半に起きたという。初対面の私に自分のすべてを曝け出し、また生業としての仕事の手を抜かない松本昭司さんの生き様に惚れた。朝飯が出来るまで小一時間ばかり鯛の里の近辺を散歩した。コケコッコー。小雨の湿った空気の中で鶏鳴が耳に優しく沁み入る。すぐそばの山側に泊清寺があり、境内の横の坂道を少し上ると墓地があった。墓地の上には漁港を見渡せる展望台のようなスペースがあり、そこからかつて佐野眞一が『大往生の島』であの世とこの世が隔てなく繋がっているかのようだと評した景色を望むことができた。そこからさら上に続く石段の横に「八十八体順拝史跡物見山登口」と書かれた看板があった。石段の上を見上げると、山道沿いに並ぶ十四、五体の姿が目に飛び込んできた。その先は林の暗がりの中に消えていた。それはいうまでもなく四国八十八ヶ所巡りのミニチュア版であったが、看板にも「史跡」とある通り、後で松本さんにも確認したが、それはすでに「返上」されたという。坂道を下り、港に出る途中で、アロエの赤い花が目にとまった。初めて見た。ゴミ出しの老人三人に出会う。目が合った瞬間に軽く会釈され、慌ててこちらも会釈して「おはようございます」と声を出す。防波堤では釣り人が数人釣り糸を垂れていた。ポンポンポンポンポンポン、、。漁船が一艘港を沖に向かって行く。この島に根を下ろして生きていくには、今私が半ば無意識意にすがっているどれだけ多くの観念や欲望を捨てなければならないだろう、などと思っていた。昨夜の松本さんとの会話の中で、私が都会の路上生活者を話題にした時だった。「都会になんかしがみついていないで、みんな島に来ればいいんだ、食って行けるさ、金のない奴は俺んとこへ来い、ワッハッハ」と明るく言い切ったことを思い出していた。朝飯は鯵の塩焼き、出汁巻き卵、青海苔を放った豆腐のみそ汁、そして島でしか採れない豆を煎って作る豆茶を使った茶粥。すべてが腹に優しくおさまっていった。松本さんは「沖家室水産」の社長でもある。私はここへ来たら、イリコとヒジキを買うつもりでいたが、残念ながら在庫がなかった。数ヶ月先まで予約がつまっているということだった。朝飯後、後片付けをちょっと手伝っている時に、お客さんがあった。近所に住むおばあさんだった。都会に住む家族へ送る小包を持って来たのだ。なんと、鯛の里は宅急便の集配所も兼ねているのだった。松本さんはおばあさんと軽妙な世間話をしながら、伝票を切っていた。鯛の里を後にする時間がやってきた。松本さんが車で周防大島まで送ってくれることになった。鯛の里の前で、ゴリラポッドを使ってセルフタイマーで記念撮影していたとき、おじいさんが一人こちらに近づいて来た。松本さんのお父さんだった。島で現役最高齢、八十六歳の漁師であり、かつ、最後の釣り鉤職人である。米寿の祝い品の件で訪ねて来たらしかった。皺の刻まれた日に焼けて引き締まった顔、表情は深い海のように穏やかだった。松本さんが車の準備をする少しの間、お父さんと二人きりになった。「いい所ですね」という言葉が自然と口をついて出た。軽いお世辞と取られかねない言葉だったが、お父さんは「空気がいいんじゃ」と思いがけない言葉を返してくれた。しかも、潮けをわずかに含んだ海からの風が体にもいいということだった。感心してその言葉を心の中で反芻しながら、お父さんと並んで海を眺めた。その静かで深い存在感に圧倒されていた。お父さんに別れを告げて、松本さんの車で出発した。江戸時代の高札場、番所、船倉の跡、そして大正時代の家並みを残す旧道(といっても、幅2メートルもない路地)に案内してもらった。車から降りて旧道を歩きながら、松本さんは一軒一軒について説明してくれた。その中には松本さんの生家もあった。まだ自然の海岸線が残っていた小学生の頃は二階の窓から釣りが出来たという。その後、車は沖家室大橋を渡って周防大島に入った。高齢化と後継者不在のために手放されて荒れ放題のみかん畑をいくつも見た。最近発見されて地元では大きな話題になっている国内最大級といわれるニホンアワサンゴの群生地(温暖化の影響らしい)がある海岸、百年に一度しか開花しない花を数年前に見たという巨大な竜舌蘭など島の自然に関する説明を受けながら、周防下田のバス停に向かった。「周防下田駅」。ここではバス停は今でも「駅」と呼ばれている。そこで、午後から仕事が入っているという松本さんと別れた私は、近くの神宮寺にある宮本常一の墓に参った。新しい小さな墓石だった。手を合わせて、ここに導いてくれた人たちの名前を心の中で唱えた。念願の墓参りを終えた私は宮本常一の生家前を通過し、十万枚の写真が収蔵される周防大島文化交流センターに向かった。