極小の私的戦線


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……あなたはどこに立脚してものを主張するのか、ぼくはどこに足をつけて表現するのか、それが大事だと思います。立脚する場の実相は、いかに貧寒としていても、隠すべきではない。

(中略)

ぼくはいま、ぼく以外のだれをも代表せずにお話ししています。なにものかに指嗾(しそう)されて話すほどいやなことはない。ぼくは欠陥だらけのぼくしか代表しません。まったく無力です。でも、極小の、ミニマムの私的戦線------ぼくにとって、争論はすべて私的です------から、ぼくはぼくの身体を一ミリだって離す気がありません。静かに、しかしときには喧嘩腰でやる。それが正しいという確信もない。引きつづき勉強するしかない。(辺見庸「もっと国家からの自由を------闘いとるべき「知」の境界」より、『抵抗論 国家からの自由へ』講談社文庫所収、154頁)


腑に落ちる。


蛇足ながら、敷衍するなら、主張や表現の立脚点がより具体的に深められ、社会的立場という贅肉が削ぎ落とされ、究極的にはこの身体で今日をいまここの闇をいかに生き延びるかという場にまで切り詰められる。若い友人の大和田君がブログ(http://d.hatena.ne.jp/kaiowada/)のタイトルを「生き残るための水」から「萌時」に変えた。一見柔に見えるこのタイトル変更には彼の不退転の決意こそを読みとるべきだと思う。無意識に勝ち組を誇る者やそれに追従する者の怯懦な思惑を遥かに越えて、彼はこの身体が本物の闇のなかで萌える時に賭けると宣言したのだ。先日、東京で会った彼は眩しいほど萌えていた。