サーカス小屋でアシカを調教する紫色の目をした娘

例えばの話。もし私がある土地を訪れ、そこで体験したことを書いた文章が、後年そこに暮らす人の目にとまり、え? これが私の暮らす土地のことか、という新鮮な驚きを与えると同時に、その人も知らない土地の意外な歴史や、忘れかけていた過去の暮らしの細部にまつわる記憶を甦らせることに成功したとしたら、難しい話はさておき、とにかく嬉しいだろう。


最近、ニコラ・ブーヴィエのことを幾つかの観点から書き続けている理由のひとつは、実は、彼が半世紀ちかく前に私が暮らす土地を、北海道を、時に命を落としそうになりがら、歩き、私の記憶の底に沈んでいた暮らしの情景を浮び上がらせてくれるような文章を残してくれたからなのである。もちろん、そんな文章が書けたのは、命を落としても不思議ではない旅を続けたからで、どうしてそんな旅を続けたのか、その一筋縄ではいかない理由が一番興味のある問題なんだけど、それはさておき、ブーヴィエには単純に感謝しているところがある。


例えば、ブーヴィエは紫色の目をした娘との印象的な出会いについて次のように書いている。

 このあたりの住人は例のなかば引きつったような作り笑いをうかべ、たえず吹いている風のせいで消耗した表情をしているが、バス停向かいの牛乳屋に入ると、舞台女優のように化粧をした娘がロシア風のストーブに古くなった段ボールをつめこんでいるところに出くわした。一年じゅう火を絶やさないそのストーブのそばに腰掛けると、娘は牛乳を持ってきてくれた。その紫がかったグレーの目は日本に来てからお目にかかったことがなく、どきりとさせられるほど敏捷に動いた。一様にやつれた顔をしたここの人々のなかにあって、彼女はひときわ美しく見えた。それにしても、こんなうら寂れたところで、こんなにみごとな化粧をし、爪にマニキュアを塗って、いったいどうしようというのだろう。ある朝目ざめるとやもめになっていた叔父の世話を数日前からみているのだという。それ以前は? 室蘭の港のサーカス小屋で賢いアシカの調教をしていたという。それで日曜日には室蘭に戻って、アシカを多少働かせてやらなければならない。なにしろ、この小動物は人間よりもなお物忘れが激しいから。なるほど、それにしたって、紫色の目をした人がどうしてまたアシカなんぞを調教することになったのか……。まあいいか、すべて不問に付す朝があってもいい。(ニコラ・ブーヴィエ「襟裳岬」、『ブーヴィエの世界』148頁)


「このあたり」とは襟裳岬で、室蘭は私が生まれ小学5年生まで育った町である。時は1965年、昭和40年頃、私が小学2年生の頃である。ところが、私はこの一節をまるで、見知らぬ寒い土地、アイルランドのような土地を舞台にした、よく出来た小説の余韻に充ちた一節のように読んだ。最初は、行ったことのない見知らぬ町での出来事としか思えなかった。地名が伏せられていたら、半世紀ちかく前のこととはいえ、まさか北海道の話とは思わなかっただろう。新鮮な驚きと戸惑いの後、ある種の快感が体を貫いた。私の記憶の暗がりに不思議な光が射した気がした。幼い頃の記憶が次々と甦った。そういえば、「牛乳屋さん」ってあったな。配達中の木箱に詰められた牛乳瓶がかち合う音が甦る。牛乳瓶の紙の蓋を集めたり、それでメンコをして遊んだりした。ほとんどの家の玄関には四角い木製の牛乳受けがあった。「ロシア風のストーブ」は学校の教室にもあった「だるまストーブ」と呼んでいたやつに違いない。祭りにはキグレサーカス(現キグレNewサーカスの前身)がやってきたっけ。「室蘭の港のサーカス小屋」はキグレサーカスに違いない。同郷で同い歳のカミさんは小学生の頃クラスにサーカスの子が短期間いたことをはっきりと覚えていた。


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