旅と言葉2


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「全ての装備を知恵に置き換えること」(イヴォン・シュイナード&石川直樹)と言うからには、単なる知識や情報を伝える一般的な言葉を、知恵を物語る特異な言葉に置き換える努力も含まれるはずだ。言葉は原初的な「装備」であり、今や言葉は「重装備」に他ならないから。そしてそれが常識に対する一種の戦いであるなら、知恵を物語る言葉は無防備、無意味であることによって、知識や情報の裏をかく。


ヴェルナー・ヘルツォークの旅日記は無防備さ、無意味さに徹している。

サヴィエールの村の小学校で、パリまで乗り物に乗ることを考えた。そうしたら、どういうことになるのか。しかし、せっかくここまで歩いてきたのに、ここから車を使うのか。もしこれが本当に無意味なことなら、むしろ最後までその無意味さを味わいたい。(『氷上旅日記』128頁)

夜のあいだずっと歩きつづけて、パリ郊外にたどり着く。(『氷上旅日記』135頁)

ぼくはアイスナーのところに行ったが、彼女はまだ弱々しく、やつれていた。ぼくが歩いてやってくることを、誰かが電話で彼女に教えたに違いない。自分ではしゃべるつもりはなかった。どぎまぎしたぼくは、彼女がぼくの方に押してくれた二つめの椅子に、痛む足をどっかりとのせた。どぎまぎしているうちに、頭のなかにある言葉が浮んできた。どっちみち奇妙な状況だったので、それをそのまま彼女にいった。いっしょに火を料理して、とぼくはいった、魚の強さを一定にしましょう(火と魚を入れかえていったもの)。すると彼女は、ぼくを見つめて、とてもかすかに微笑んだ。ぼくが歩いて旅をする人間であり、それゆえに無防備だということを、彼女は知っていたので、ぼくの気持ちをわかってくれたのだ。ほんの一瞬のあいだ、死ぬほど疲れきったぼくのからだのなかを、あるやさしいものが、通り過ぎていった。ぼくはいった。窓を開けてください。何日か前から飛べるんです。(『氷上旅日記』142頁)


かつて旅人ブルース・チャトウィンは「私は現実というものはいつもファンタジーよりもずっとファンタスティックだと信じていたから、ジュール・ヴェルヌは好きになれなかった」(Anatomy of Restlessness, p.9)と語り、またフィクションとノンフィクションの区別を認めず、芭蕉をひとつの手本にして、現実を物語る行為を限りなく「歌」や「音楽」に接近させようとした。その観点からするなら、ヘルツォークの「窓を開けてください。何日か前から飛べるんです」という言葉は、そのときのヘルツォークにとっての現実を物語るこの上なく無防備で、無意味な、音楽のような、歌のような言葉だったに違いない。