ジョナス・メカス「美の一瞥」試訳

ジョナス・メカスの最新インタビューが非常に面白かったので、訳してみました。すでに色んな場所に書かれている事実も少なくありませんが、6歳の頃の体験や、ごく最近の彼の関心事など、新鮮な事実も語られ、しかも全体的に彼ならではの詩的な語りには大きな魅力を感じます。ジョナス・メカスについて全く知らない人にとっても大いに参考になるものと思います。翻訳をここに載せることについては、‘do it, I give  you my permisson’(やれ、私が許可する)、と本人の許可を得ました。



Jonas Mekas, Brief Glimpses of Beauty: Interview with Hans-Ulrich Obrist, 2010


美の一瞥
ジョナス・メカス



スイス人のキュレーター兼美術批評家のハンス-ウルリッヒ・オブリストHans-Ulrich Obrist)とのインタヴューで、独立映像作家のジョナス・メカスは、リトアニアを出てからアメリカ前衛映画の「ゴッドファーザー」になるまでの道のりを語る。



幼い頃について

私の人生の始まりとでもいうべき出来事をよく覚えている。6歳くらいのころだったと思う。父のベッドに腰掛けていた。突然、父の一日の物語を歌いたくなったんだ。それはその日父がしたことの非常に正確な暗誦だった。母と父は耳を傾けていた。二人の驚いた顔を今でもよく覚えている。私は夢中だった。母と父は最初の観客だった。そのときの体験、日々触れている現実に向かう熱烈さと親密さの感覚が、それ以来の仕事の目標になった。今でも撮影するときには、そのときに体験した冒険と興奮の感覚を、無意識のうちに追い求めている。6歳のころに私は詩的人生の頂点(the peak of my poetic life)に達したのかもしれない。それからずっと、私はただそれを再現(recreate)しようと努めてきたにすぎない。


リトアニア時代の反ソヴィエト、反ナチ活動のその後の仕事への影響について

1940年、18歳の時にソ連リトアニアに進軍してきた。一年余りで今度はドイツ軍がロシア軍を追い出し、リトアニアはドイツの支配下に入った。その占領期間に、反ソヴィエト、反ナチの地下出版のネットワークが生まれた。私たちは、禁じられていた、主にイギリスのラジオを聴いては、リトアニアで起こっていること、外の世界で起こっていることを、人々に知らせた。ソ連軍もドイツ軍も私が関わっていた出版をことごとく根絶するために何でもやった。それらの出版は厳しく禁止されていた。奴らが出版物を追跡するのに使った方法のひとつは、使用されたタイプライターの書体(typefaces)を研究することだった。だから私は自分のタイプライターをうまく隠しておかなければならなかった。だが、ある夜私のタイプライターが無くなった。泥棒がそれを売って、ドイツ軍がその出所を発見するのを待ってはいられなかった。そのことを仲間達に知らせると、すぐに私は姿を消すべきだという決定がなされた。私と弟のために偽の新聞が作られた。数日後に私たち二人はウィーンに行くはずの列車に乗った。ところが、列車は軍警察に止められ、私たちは結局フランス人とイタリア人の捕虜たちと一緒に強制収容所に送り込まれた。地下出版への関わりは、私の人生の方向を大きく変えた。私は突然西側(the West)にいた。一方、幼なじみの友人たちはみな東側(the East)に残った。


フレッド・ジンネマンの映画『山河遥かなり(The Search)』の衝撃について

戦後、1945年6月から1949年10月までいくつかの難民キャンプで過ごした。それらのキャンプはアメリカ軍の監視下にあった。娯楽用の安っぽい映画(movies)をたくさん見ることができた。だが、それらの映画は私たちを鼓舞してくれるようなものではなかった。そんな中、戦後ドイツ映画の始まりに立ち会うことができた。ヘルムート・コイトナーHelmut Kautner)やヴォルフガング・シュタウテ(Wolfgang Staudte)のような監督の映画(films)である。それには興奮した。それからジンネマンFred Zinnemann)の『山河遥かなりThe Search)』を見た。それは難民たちの人生を描いたとされるものだったが、私たちはかなり腹を立てたことを覚えている。その映画は、難民にとって故郷から根こそぎにされるとはいったいどういうことなのか全く分かっていなかった。だが、それがきっかけとなって、私たちは難民の人生に関する私たち自身の映画を作ろうと考え始めた。そしてそれこそが私たちがやりたいことだと心に決めた。映画が私たちの新たな人生になった。私たちは図書館や本屋にある映画に関するものなら何でも片っ端から読み始めた。私たちは詩的なドキュメンタリーのための脚本をいくつか書いた。それらは結局は制作されなかったが。


ニューヨークの影響について

ソヴィエトとドイツの占領期間と難民キャンプでの5年間に、かつてのドイツの廃墟の中で、私たちは文化に飢えていた。そして青春時代に失ったものを取り返したかった。ニューヨークに上陸した時、まるで楽園に降ろされたような気がした。街は映画、役者そしてジャズに溢れていた。ケネス・アンガーKenneth Anger)、グレゴリー・マルコプーロス(Gregory Markopoulos)、マヤ・デレン(Maya Deren)そしてシドニー・ピーターソンSidney Peterson)のワクワクするような新興の前衛映画は当時実験的(experimental)と呼ばれていた。それからビート世代、抽象表現主義、十番街と来て、そしてやがてハプニング劇場。それはもう信じられないほど豊かで刺激的な時代だった。私たちは乾いたスポンジのようにそれを吸収した。私たちは人間(humanity)に失望してニューヨークにやって来たが、ニューヨークで人生の新鮮なエネルギーを発見しそれに感染した。ニューヨークによって私の正気は救われた。


合衆国の内と外での映画制作の違いについて

国民的な映画(national cinema)の美しさはあくまで地方的(local)なものだ。各国で国民を喜ばせるためにその国の言語で映画が作られる。それは例えば私がギリシアアルジェリアの映画を見る時に、小さな窓からその国民の心、関心、幻想を覗くことを意味する。そして出来がよくないほど、映画はそのような性格をよりよく反映する。前衛映画はそれとは違う。前衛映画には地方色はほとんどない。初期にはおそらくいくらかあったかもしれないが、今日の前衛映画は万国的(universal)だ。さらに、前衛映画にはもはや支配的な国や都市は存在しない。ニューヨークやパリやサンフランシスコが支配的な時代はあった。だが、今日では、地球規模の前衛集団である。


映画と現実との間の隔たりについて

言うなれば私の映画はワインかパンのようなものだ。すべてが現実。ワインやパンの製造過程で原料が別の物へと変形するように、私は現実からごくわずかの断片を抜き取って、それらから何か違うものを作る。だが、ヴィデオに切り替えて以来、特に365日企画(the 365 Day Project)の間は、そのような変形をしない方法に関心を向け始めた。私は現実の人生の色んな瞬間をどうやって記録し、その瞬間の本質をどうやって途切れのない撮影によって捉えるかに挑戦した。編集なし。一発、一撃(One take, one shot)。簡単なことに聞こえるかもしれないが、そうではない。その瞬間まで忍耐強く待つことができなければならない。しかも、私は現実の生活(real life)における様々な状況を撮影しながらも、現実的に個人(really individual)であり続けるという、最大の困難に直面し続けている。成功に近づいているとは思うが、それは私自身の人格的同一性に関しては結果的に沈没(submersion)をもたらす。それは恍惚と狂気の出会いだから。


素材の再利用について

私はますます過去に撮った素材を新しい方法で利用するようになっている。例えば、一本の映画を四つの部分に分けて、四台のモニターで映し出すことによって、一体何が起こるかということに非常に関心がある(Destruction Quartet, 2006 @ Armory Show 2010参照)。それはもはや直線的な種類の回想(a linear kind of memoir)ではなくなる。全体的に異なったエネルギーがそこに生まれる。その内容はこれまでにない、より同時代的な出来事(contemporary event)に変形される。仲間の映像作家の中にはこれを冒涜行為とみる者もいる。彼らは映画は映画であり、そのままにしておくべきだと言う。だが、私はどちらも正当だと思う。私はこのような映画の再利用の可能性に没頭している。


毎日撮影することについて

徐々に毎日撮影するようになった。365日企画に時間を取られて大忙しだったときにも、しきりに撮影したかった。だから撮影し続けた。私はカメラ中毒だ。撮った映像を書かれた日記に相当するものとして見始めるには10年かかった。その時点で私は自分がしていることに対して以前よりも意識的になった。映画の新しい形式の可能性について関心を払うようになった。おまえは反復練習のように毎日撮影することに慣れなければならない、というわけだ。歩くこと、生きること、目覚めていること、つねに<今(Now)>の状態にあること、今は瞬間! だから、私はバッグからカメラを取り出して撮る。何故かは分からないが、私は撮る。だから撮る。


新しい技術の出現が映画制作におよぼす影響について

技術の変化がフィルムを解雇したので私はヴィデオに切り替えた。大学やギャラリーや美術館の前衛映画劇場もヴィデオとコンピュータに切り替わり始めた。だから私はインターネットを取り入れた。私の最も野心的な最近の冒険、365日企画では、2007年の一年間に毎日一本のヴィデオを制作した。それはインターネットを通じて公開された。インターネットはいわば庶民の地下(the People's Underground)である。それは比類ない。過去のどんなものにも似ていない。それは技術の前衛の一部である。インターネットは芸術界を風靡した過去の前衛現象とは関わりを持たない。私の見るかぎり、インターネットの外側で今なお実践されているフィルムとヴィデオには前衛は存在しない。今日の芸術のどこかに前衛が存在するかどうかさえ怪しい。だが、古来、武器が語る間は芸術は沈黙する(when arms are talking arts are silent)、とも言われる。そしてこの惑星上には大量の武器が存在する。


新しい技術がもたらす映画の見方の変化について

フィルムやヴィデオの個人鑑賞はそれほど新しいことではない。例えば、ジョージ・マチューナス(George Maciunas)は6×4インチのテレビ画面で一晩中一人で映画を見ていたもんだ。彼から学んだ驚くべきことは、開拓時代の西部(the Wild West)の空間を感じるために、西部劇(Western movies)を巨大なスクリーンで見る必要はないということだ。実際に、彼はしばらく見ていると6×4インチの空間は最大の映画館のスクリーンに匹敵する広さになると語った。心次第である、と。ちっぽけなiPodの画面は非常に広い。身体よりも心に関わる問題なので、本能的ではないが、これは生活と文化における正常な進化論的変化である。iPodでものを見る人々は依然映画館にも通う。だが、小さな画面、iPodの画面は、若い世代の間では支配的である。一方では集団鑑賞から個人鑑賞への転換が起こっていて、それは消え去ることはないだろう。だが、他方では美術館やギャラリーも消え去ることはないだろう。今のところインターネットやiPodでしか見られない作品もやがては美術館やギャラリーで見られるようになるだろう。未来は予言不可能である。


前衛映画の反社会的要素の重要性について

過去の前衛芸術家を見れば、彼らがある一定の種類の統合失調症(schizophrenia)であることが分かる。その宣言(manifestos)は怒りと敵対の姿勢(oppositional stances)に満ちているが、その作品は建設的(positive)で刺激的であり、同時代人から飛び抜けている。形式、内容、そして技術が前進している。敵対的姿勢は心理的に必要なだけである。それは大きな変化を起こす際の言い訳のようなものにすぎない。前衛映画はハリウッド映画に反対していたわけではない。単に違う動物だったのだ。芸術界も同様。人はメロドラマだけでは生きられない。同じように、人はステーキだけでも生きられない。時にはサラダが必要だ。根に肥料をやりなさい、そうすれば木はよく育つ。これは父から学んだことだ。