あらゆる愚かな踏破を試みていくのだろう:南無さんの「白骨の章」

ここに来て、どこに来て? 「老い」をめぐる葛藤を他人事のように観察しておいてから、南無さんが吉本隆明に言寄せて、「孤独」について語り始めたかと思いきや、さりげなく、「所詮」の覚悟を蓮如上人(1415–1499)の「白骨の章」に託し、達観とか悟りとかのあちら側に鋭い一瞥を送り、その土俵際でクルリと踵をかえして、「あらゆる愚かな踏破を試みていくのだろう」と書き残し、颯爽と<現場>に戻って行く身振りに、なぜか、当然、胸を衝かれた。

所詮は「朝には紅顔ありて・・・」でしかないのだが、そうであるからこそあらゆる愚かな踏破を試みていくのだろうと思っている。そしてそれはこれからも続いていくのだろう。昨日62歳になりました。

  「書いている内に翌日に」(『南無の日記』2010-03-19)


孤独に関しては、内閉とは真逆の外開の果てに得られる「世界に対して非常にアクティブな情動から来る感覚」、「世界に対して常に開かれているという有り様」としての<寂寞>が、存在の根、というより根茎のような存在感が鋭く指摘されている。その上での、蓮如上人の「無常」に定位した「遠くからの信号」のような言葉である。


蛇足ながら、「朝(あした)には紅顔(こうがん)ありて・・・」には、「夕(ゆうべ)には白骨(はっこつ)となれる身なり」が続く。予測不可能、描像不可能な未来を怖れても仕方がない。「朝」と「夕」の間で、「紅顔」と「白骨」の間で、<現在>にこそ十二分に怖れ戦け。南無さんの敢えてする沈黙が吉本の引用文と響き合う。