ソローの時の流れの思想に寄せて

川は流れるとか川の流れとか、よく言われるんだけど、川って、川そのものって、流れてない。流れているのは水で、川はその通路、道だからね。大地に掘られた溝。水が幾世代にもわたって流れ続けて、そう、続くことが肝心なんだ、それで川と呼ばれるに値する道になる。川は本質的に持続っていうことだと思う。大きく見れば、地球規模の水の循環における大地での持続。循環における持続。そもそも、流れとはある場所に限って見れば、去るものがたえず補われることによって成り立つ状態。流れとは去り続けることと補われ続けることの均衡と言ってもいいかな。


じゃあ、時は流れる、時の流れ、という言い方についてはどうだろう? 時は実は流れるものではないと言えるだろうか。時は川と同じように何かが流れる道にすぎないと言えるだろうか。おそらく、生命と呼ばれるもの、個々各種の生命形態の総体が一種の循環をなしていて、もしかしたら、総量としての生命は一定なのかもしれない? そこにおいて見られる持続が時の流れの正体だと言えるだろうか。例えば、私の衰え、老いという局所的現象は、どこかのだれかの誕生や成長によって補われている、と。



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今から160年ほど前にソローは次のように時の流れの思想について断片的に述べた。

変化に私の思考が敏感になっているとき、これまでずっと知っていた岩に座って眺めるのが私は好きである。そして岩の苔の様子をうかがい、それがしっかり定着し不変であるのを見る。永遠に灰色である岩の上で私はまだ灰色(老年)ではない。常緑樹の下で私はもはや若く(グリーン)ない。時の流れの中にさえも、その流れによって時が自らを回復する何かがある。山口晃訳『コンコード川とメリマック川の一週間』400頁)


不変と感じられるものがあって、それとの相対的な関係において「変化」がそれとして認知されることはいいとして、最後の「時の流れの中にさえも、その流れによって時が自らを回復する何かがある」という訳文がずっと気にかかっていた。「何か」って何? そしてそれによって「回復」されるってどういうこと? 原文はこう。

When my thoughts are sensible of change, I love to see and sit on rocks which I have known, and pry into their moss, and see unchangeableness so established. I not yet gray on rocks forever gray, I no longer green under the evergreens. There is something even in the lapse of time by which time recovers itself. *1


「流れ」と訳された語は ‘lapse’ 。 lapse には、流れや経過といった比較的抽象的な意味の下に、喪失や過誤や堕落や逸脱などの、少なくとも一時的には取り返しのつかないこともある変化という、場合によっては深く胸を刺すこともあるような、比較的具体的な意味が控えている。後者の意味を踏まえれば、 ‘recover’ 、「回復」も少しは腑に落ちる。けれども、繰り返すが、「何か」って何? そしてそれによって「回復」されるってどういうこと? 


人間の限られた視野、一種の舞台においては、絶え間なく何かが失われ、流れ去り、退場していくが、その先から次々と新しく何かが補われるようにして流れ込んでくる、登場してくる。それが総体としての<生命>の部分的現象だとすれば、そしてそこで視野を思いきり広げることができれば、大きな循環としての生命総体が感じ取られるようになる。その大きな循環は一応不変と見なされる。そのような循環があるからこそ、流れは一時的局所的に喪失や堕落や逸脱であったとしても、大きな循環の中で、その同じ流れにおいて自らを回復することができる、、。


時の流れとは生命総体の循環における喪失と回復が均衡を保つ持続であると言えるだろうか? つまり、時が流れるわけでなく、あくまで循環としての生命総体が時の流れとして表象化あるいは様々に形象化されてきた、と。

*1:Henry David Thoreau, A Week on the Concord and Merrimack Rivers; Walden; or Life in the Woods; The Meine Woods; Cape Cod, The Library of America, 1985, p.285