大地の微光(glimpses of terra firma):ソローの詩と書物についての見解


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「馴致されぬ、未開の、自由で野性的な思考(the untamed, uncivilized, free, and wild thinking)」*1を尊んだソローは、安息日(日曜日)にも働き、著述に関しては自らを励ます次のような言葉を残している。なお、以下のソローの引用はすべて山口晃訳『コンコード川とメリマック川の一週間』の「日曜日」からのものである。ひっかかりを感じた訳語句には原文の語句を並記した。

朝から晩まで一生懸命働くとき、その間は自分の思考の繋がりを保っておけないので残念に思うかもしれない。しかし晩にその日の経験を短時間に記す数行は、自由だが怠惰な空想が生み出すものよりは、はるかに音楽的で真実(more musical and true)であるだろう。(山口晃訳『コンコード川とメリマック川の一週間』128頁)


「はるかに音楽的で真実(more musical and true)」という評価は、ソローにあっては、その書かれたものが「詩(poetry)」であることを意味していた。

 書き記されるもっとも高貴な英知(wisdom)は詩で語られる(rhymed)か、あるいは何らかの点で音楽的な律動をそなえており(musically measured)、それは内容のみならず形式においても詩であることは、まちがいない。人類の濃縮された英知の書物が、リズムを欠いた文章(one rhythmless line)である必要はない。(同書110頁)


そしてソローは詩を自然との関係において特に歴史と科学との比較において次のように明晰に捉えていた。

 しかし詩は、最終のそしてもっともすばらしい成果であるとしても、それは自然の果実なのである。オークの樹がドングリを、葡萄が果実を結ぶのと同じように、人間は自然によって語られるかあるいは働きかけられるかして、詩を生み出す。これは第一の、そして何よりも重要な成果なのである。というのも、歴史は詩にふさわしい行為を散文で表現した物語にほかならないからである。…詩は現象についてのもっとも簡潔な物語であり、広く共有されている感動(the commonest sensations)を科学よりもはるかに多くの真実で叙述する。科学はある距離を置いて詩のスタイルと方法をゆっくりとまねるのである。詩人は血液が血管の中をめぐっていく流儀で歌う。これが彼の自らの務めの果たし方であるが、彼は非常に健全なので、植物が葉を出し花を咲かせるのと同じように、歌うための促しだけを必要とする。時々耳にするよそよそしい儚い音楽を彼は奏でようとするが、むなしいことである。というのも彼の歌は呼吸のように生命力のあるはたらきであり、体の重さのように欠くことのできないものだからである。彼の歌は生命の氾濫ではなく、むしろ鎮静(subsidence)である。それは詩人が踏みしめている足の下から引き出されている。(同書110頁〜112頁)


さらにソローは読むに値する書物はそのような詩に他ならず、単に博学な本ではなく、真実で真剣な人間的な本、率直でごまかしのない伝記(biographies)であると語り、次のように述べた。

書物というものは純粋な発見、大地の微光(glimpses of terra firma)を含んでいなければならない。(同書119頁)


「大地の微光(glimpses of terra firma)」。凄い言葉だ。‘glimpses’ は訳すのが難しい語である。「大地の微光」という訳は、われわれが大地を一方的にちらりと見るのではなく、大地の方がわれわれをそうとは気づかれずに実はちらりと見ていることを示唆するように思われる。そのような微かな光を感知しうる底抜けの主体が「詩人」と呼ばれるのだろう。

*1:「日記」、『アメリ古典文庫4 D・H・ソロー』304頁