良心(conscience)の根拠

ソローは良心(conscience)の根拠について、その語源の通り、「共にcon-+知るscīre」つまり「分かち合う」という意味を踏まえた上で、ソフォクレス『アンティゴネー』の一節を引きながら次のように述べた。

アンティゴネーは彼女の兄ポリュネイケースの死体に砂を振りかけようと決心する。こうした務めをギリシャ人たちは非常に重要と考えていたが、クレオーン王は自分の国テーバイの敵を益するものとみなし、そのようなことをする者は死刑に処するという布告を出していた。しかしそれほど強い心、高貴な精神を持っていない妹のイスメーネーはこの務めで姉に協力することを断り、次のように言う。

イスメーネー とにかくわたしは、あの世にみまかった方々に自分のすべきことをおたずねして、それで権力の座に昇った人たちには従うつもりなのです。だって、よけいなことをやっても、何の意味もないじゃありませんか。
アンティゴネ では頼みません。その代わり、後になって、ああ、やっぱり手伝いますと言われても、もうごいっしょはいやです。いいようになさい。あの方は、わたしがちゃんと、弔ってさしあげます。それで死ぬならそれこそ本望。あの方に愛されて、並んで横たわりましょう。愛する方といっしょに。神の掟に従って、人間の掟を背負ってやります。この世の人々よりは、あの世の人々に気に入って頂かねばならない月日のほうが、ずっと長いんですもの。これから永久にあの世に伏すのですからね。ですが、あなたは、好きなように、神様が尊ばれるものを軽んじなさい。
イスメーネー 軽んじなどしません。もともとわたしの性質では市民にはなれませんので、そうした市民でないように振る舞うだけです。


ついにアンティゴネーはクレオーン王の前に連れて行かれ、王にたずねられる。


クレオーン それでは、あえて掟を破ったと申すのだな。
アンティゴネ ゼウス様があのようなお触れをお出しになったわけではさらさらなく、地下の神々とともにおわす正義の女神が、人間界にかような掟をお定めになったわけでもない。あなたのお触れと申しても、あなたも所詮死すべき人の身ならば、文字にこそ記されてはいないが確固不抜の神々の掟に優先するものではないと、そう考えたのです。神々の掟は、昨日や今日のものではない、時を越えて生きている、その由来など、誰も知りません。わたしは、誰のにせよ人間の意向を恐れるあまり、この神の掟を破って、それゆえ神々から罰を受ける、そんなことはすまいと考えました。私も人の子、いずれは死ぬ身でございます。たとえあなたのお触れがなくても、死なねばならぬと、十二分に承知しております。


これは死者の埋葬にかかわることであった。(山口晃訳『コンコード川とメリマック川の一週間』156頁〜158頁)


いかなる政治的判断においてもあくまで良心に従い、そして自由に行動することをモットーとしたソローにとって、そのような良心の声は、人間の歴史、記憶の彼方から届くものだった。ちなみに、ヘーゲル『精神現象学』において、『アンティゴネー』を「人倫」の象徴として分析している。



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1849年に発表されたソローの論文「市民の反抗」(1866年に『カナダのヤンキー、および奴隷制度反対と改革論集』に収められた)は、20世紀になってロシアのトルストイやインドのガンジー、後にはマーティン・ルーサー・キングに行動上の指針を与え、「アメリカを変えた本」(ロバート・ダウンズ)の一つと評されることになるが、それは、戦争と奴隷制度に反対する意志を行動によってあらわすために人頭税を6年間払わなかった廉で投獄された体験を持つソローがいつも耳を傾けていた歴史の彼方からの良心の声が印刷されたようなものだった。その中でソローは次のようなユーモアと辛辣な批評を交えた凄い言葉を記している。

人を不正に投獄する政府のもとでは、正しい人間のいるべき真実の場所もまた牢獄である。(齋藤光訳「市民の反抗」より、『アメリ古典文庫4 H・D・ソロー』203頁、飯田実訳、岩波文庫『市民の反抗』30頁)

Under a government which imprisons any unjustly, the true place for a just man is also a prison. (Henry David Thoreau, Civil Disobedience, AMS*1 p.370)


参照

*1:The Writings of Henry David Thoreau IV,1968