サンタルベツ川


藻岩山(左、531m)と手稲山(右、1023m)


ある学生の口から「サンタルベツ川」という地名が飛び出して、驚いた。盗難にあった自転車がその川に乗り捨てられているのが発見されたと警察から連絡があったという話の中だった。「サンタルベツ、サンタルベツ」。初めて聞いた。「ハッタリベツ(八垂別)」に似ているなあ。どこだろう? その学生にも手稲の方、としか分からなかった。北海道の地名にはアイヌ語に由来する音と意味が記憶されている例が少なくないことや、川の名前がその土地の名前になったという話をしながら、サンタルベツという音を頭の中で何度も転がすように発音していた。山田秀三『北海道の地名』には載っていない。ネットで調べてみたら、

サンタルベツ(サンタラッケ=縄で鹿を縛り荷おろしする所。富丘)


という記述に出会って、もっと驚いていた。何という具体的なイメージがその名前に籠められていたことか。現在の名前である「富丘」の「富」に非常に微かにそのイメージが映る。1871年(明治4)に開拓使(北海道の開拓にあたった明治前期の行政機関。1869年(明治2)創設,82年廃止)によってサンタルベツに「通行屋(駅逓)」が設置されたという(道だ!-コラム『歴史考察』-札幌)。


さらに、藤上匠さんのウェブサイトNORTH DREAMS(北海道歳時記)に掲載された詳細な「星置の歴史」には、サンタルベツ(漢字表記は「三樽別」)にちなむ、次のような明治初期の人の動き、商売の歴史を彷彿とさせる記述があった。

明治のはじめ、函館から陸路岩内・小樽を通って札幌に向かった人たちや、小樽の港に上がって、札幌方面へ旅をした人たちは、星置越えの難所をこえてサンタルベツ川までくるとほっとしました。石狩から歩いてきた人たちも、同じようにここで荷をおろし、サンタルベツ川の水でのどをうるおしたことでしょう。目の前に広がる石狩平野、ここまで来ると札幌はもう一息です。1942(昭和17)年まで三樽別(サンタルベツ)と呼ばれていた富丘は、昔から旅人の休息の場所でした。開拓使がここにサンタルベツ通行屋を置いたのは1871(明治4)年のことです。南部(岩手県)の吉田新兵衛という人をその番人にして、旅の人の世話をさせました。そのほか高瀬儀七という人など6・7戸が、もち屋や馬の道具を売る店を、その付近に出したといいますから、この人たちが富丘に最初に住んだ人とみていいでしょう。軽川や稲穂の人たちが、ここで炭をやいていたという記録もあります。

 しかし、1880(明治13)年に小樽と札幌の間に汽車が走り、翌年軽川駅ができてからは、旅人の数も減って、店をやめた人もいるのではないでしょうか。

 三樽別に古くから住んで農業をやった多くは、1900(明治33)年前後にこの地に入った人です。この人たちが、洪水などとたたかいながら、今の富丘を築いてきました。

 乙黒定七(先代)さんが富丘に製油所をつくったのは1902(明治35)年で、これは手稲で一番先にできた工場です。乙黒さんは、山梨県で菜種油を製造していました。全国各地から原料の菜種を集めていましたが、その中で、小樽から送って来る菜種が大変良く油のとれるものでした。そこで乙黒さんは、北海道の各地を数年にわたって調べ歩き、その結果、「ここがよい」ということで三樽別に工場を建てました。

 三樽別には、有名な温泉旅館もありました。1893(明治26)年(注1)にできた光風館です。小樽の東幸三郎という人がはじめた旅館ですが、その後、藤村昌太さんが経営しました。定山渓にも旅館が1軒というころですから、この人たちは、札幌の温泉旅館の草分けと言えます。


「2.8工場と温泉の草分け」


なるほど、思いがけず、サンタルベツが「光風館」にもつながった。「光風館」についてはかつて尼港事件(1920年)と軽川光風館事件(1922年)を調べていて少し触れたことがある。


「ハッタリベツ(八垂別)」についてはこちらを。