大連にて



旅順口の海岸の風景。沿海ではアワビによる真珠の養殖が行われていると聞いた。



大連で宿泊したホテル前の歩道で乞食する翁。1元恵む。


今から二十年余り前に、ジル・ラプージュ『赤道地帯』(弘文堂、1988年、asin:4335950209)の「訳者あとがき」の中で管啓次郎は次のように書いた。

 「私の生涯においてしばしばそうであったように、そのときも私はとりわけ想像力の欠如によって守られていたのです」。今年、八十歳をむかえるレヴィ = ストロースは、半世紀まえの危険にみちたブラジルの旅をふりかえって、微笑しながらそういう(『近くから遠くから』)。なんていう真実だろう! 旅行の最大の敵は想像力、神話、濃密な記憶だ。どれもが認識と行動を透明なバリアーでさえぎり、運河のように秩序づけられた回路へと流してしまう。旅そのものを、いわば物質的に、ありのままの姿で生きるためには、記憶のドレスや想像のハイ・ヒールを脱ぎ捨てて、はだかではだしで土地の泥に足を汚さなくてはならない。でもそれはむずかしい。ほんとにむずかしい。ほとんどの人は、認識の冒険者となるまえに、想像された自分の影におびえ記憶の罠に捕まって、アルマジロのような足どりの稚拙な旅をくりかえす。自分の皮膚から一歩もあゆみでることのないままに、過去をなぞり、甘いノスタルジアに涙ぐみ、苦い認識にとらわれるくらいならその場しのぎのユーモアに身をまかせることを選んで、徒労感にうらうちされた満足感を味わう。そしてその満足感が日常生活のひなたに融けだした氷のせいで薄くなってしまわないうちに、だれもが旅の自慢話をし、旅行記を書く。…報告書、ガイド・ブック、回想記、くたばれ! <旅について書かれた本>なんかではなく、<旅する本>を読みたいんだ!(255頁)


地球上どこへ行こうが、その土地を、毎朝の散歩以上でも以下でもない足どりで歩くしか能のない私にとって、若き管さんのいわば「反旅行記」宣言の言葉は心地よく響きます。


一週間ぶりの記事になります。校務出張で中国に行ってきました。大連市(東北の遼寧省、人口約210万人)を皮切りに、広州市(華南の広東省、人口約1,000万人)へ南下し、それから天津市華北の河北省、人口約500万人)に北上し、再び大連市に戻るという旅程でした。各地に数日ずつ滞在しました。いずれも日本と変らぬ近代的な高層建築がたち並ぶ新しい市街地を中心に据える大都市です。しかし、都市計画に基づいた開発や保存から取り残されたような裏ぶれた街並や路地もたくさん残っていて、そういう場所で生活する人たちの「体温」をほんのわずかですが感じ取れたような気がしました。それに、日本では見ることのできない光景にもたくさん出くわしました。そんな旅の記録をぼちぼちアップしていきたいと思っています。