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林権沢(イムグォンテク)監督のパンソリ映画『風の丘を越えて−−西便制(ソピョンジェ)』(1993)は、「韓国近代史のなかにうもれたハン(恨)をさまざまに解きほぐしたために空前の共感を呼んだ」あるいは「現代韓国人の心琴を揺さぶった」*1と評される。原作は李清俊(イ・チョンジュン)著『南道사람』(1988)。映画と同じ題名の邦訳『風の丘を越えて−−西便制(ソピョンジェ)』(asin:4150407347)は根本理恵による訳で1994年にハヤカワ文庫から出ている。
「芸能と差別」の歴史への関心がパンソリの謡い手と鼓手を含めた朝鮮の芸能者「広大(クワンデ)」への関心につながり、本書を読み始めたが、思いがけず、主人公の<原風景>の描写に強く惹かれるものがあった。
男はそのとき、全身が焼きつくされるようなかんかん照りの陽射しに耐えていた。
唄を聞くたびに彼の頭上にはじりじりと燃えさかる夏の太陽があった。幼い頃から彼が背負ってきた一つの宿命としての太陽だった。
波が魚の鱗のようにぎらぎらと輝いていた。そんな海を見下ろす丘の畑の片隅。そこにはだれのものとも知れない古びた墓がぽつりと一つ横たわっており、少年はいつも墓のある芝草の上で、腰を紐でくくりつけられたまま過ごした。椿林へとつづく細長い丘の畑は、少年の死んだ父親が若い妻に残したほとんど唯一の遺産だった。少年の母親は、毎年夏のあいだを畑仕事だけに追われて過ごした。
少年は来る日も来る日もその芝草の上で過ごし、紐でつながれた獣のような恰好で長い長い夏が過ぎるのを待たねばならなかった。そして、ときには丘の上からぎらぎらと鱗の模様を水面に描きながら島の周りをめぐる帆掛け船を見おろし、ときには顔を蒸すような夏の陽射しの下で腹を空かせたまま昼寝をしたりした。そうして畑へ入って行った母親が仕事を終えて出てくるのをいまかいまかと待ちわびていた。しかし、豆、もしくは豆とモロコシをいっしょに植えた畝あいで仕事をする母親は、少年が待っていることなど気にかけもしなかった。母親は波の上をさまよう浮標(うき)のように畑のあいだをふらふらと行ったり来たりしながら一日中、なにかの唄のようでもあり、また泣き声にも似た鼻唄を口ずさんでいた。母親からこぼれるそんな声だけが少年からゆっくりと遠ざかっては近づき、近づいてはいつのまにかふたたびはるか彼方に遠ざかっていくのだった。(李清俊『風の丘を越えて−−西便制』ハヤカワ文庫、26頁〜27頁)
不在の父親を象徴するかのような「太陽」、だれのものとも知れない古びた墓、椿林、海を見下ろす細長い丘の畑。そんな畑の片隅で、主人公は夏の太陽に焼かれ、母親の泣き声にも似た唄声を風のように聞いて幼少期を過ごした。神話と風土が凝縮されたような「風の丘」である。