追悼、志村啓子さん


プリーモ・レーヴィ(Primo Levi, 1919–1987)の本を読みたくなって、図書館でまとめて5冊借りた日、志村啓子さんの訃報に接した。絶句した。リゴーニ・ステルン(Mario Rigoni Stern, 1921–2008)の諸著作を中心とした渾身の訳業を通じて、心の森の奥深くに通じる道を独力で切り拓いてこられた志村啓子さんの後姿を一瞬見失った。その道を彼女のはるか後方からとぼとぼと私は歩いてきた気がする。そしてその道は私が全く別方向から歩いてきた道と交わっていることを知って驚いていた。


志村啓子さんに3年前にお会いした時のことがつい昨日のことのように思い出された。


その後、2009年初めに志村啓子さんから涙に溢れた新春の挨拶状が届いた。


それからまだ2年も経っていない。志村さん、早すぎるよ、、。挨拶状には『婦人之友』2008年9月号に掲載された志村啓子さんのリゴーニ・ステルンを追悼する「森の奥で一本の巨樹が」と題した文章のコピーも同封されていたのだった。志村啓子さんの魂の訳業を偲びつつその追悼文を読み返していた。驚いた。プリーモ・レーヴィの名前が刻まれている。ハッとした。そうだった。プリーモ・レーヴィはリゴーニ・ステルンの盟友だったのだ、、。


プリーモ・レーヴィについて志村啓子さんは次のような簡潔な註を付している。

アウシュヴィッツから生還したユダヤ系イタリア人作家。リゴーニ・ステルンとは互いに相手の著作に感銘を受けたことから親交が始まった。代表作に『これが人間か』(邦題『アウシュヴィッツは終わらない』)『周期律』。生前ふたりは通う人のまれなヴァッレ・ダオスタ州の、とある山地を訪れる約束を交わしていた。


付け加えるなら、1987年4月11日に自宅アパートの階段から転落して死亡。遺書は見つからなかったが、自殺だったと言われる。志村啓子さんの追悼文の最後は、リゴーニ・ステルンがプリーモ・レーヴィの訃報に接して綴った追悼文「メドゥーサは私たちを石に変えなかった」の最終段落を引いて結ばれていた。

 昨日は光り輝く春の日だった。蜜蜂たちはクロッカスとユーカリの花粉と蜜を集めるのに忙しかった。最初の雲雀の群れが帰ってくるのが見られ、愛し合う小鳥たちの歌声で森は沸きかえっていた。それなのに私は泣いていた。きみが逝ってしまったからだ。きょう、空はどんよりとして、雷鳥が峰々をめぐっている。だが、私はもう泣かない。きみの遺していった宝を心のうちに持っているからだ。その宝がかろうじて、愚かになることから、不善に陥ることから、私を守ってくれることだろう。さようなら、プリーモ。私たちの秘密の山の中で、また会おう。この言葉に寂しげにきみが微笑むとしても、私は言いたい。「また会おう」、と(『夜明けを待って』)


志村さん、あなたの訳されたリゴーニ・ステルンの本を開くたびに、私はあなたに会えるような気がします。まだまだあたなはずっと先を独りで歩いているけれど。その見失いかけた後姿を追いかけていきます。もしかしたら、どこかの曲がり角でばったり鉢合わせするかもしれないことを期待して。


志村啓子さんのご冥福をお祈り申し上げます。