歴史の死斑


故郷の室蘭にはもう私の実家はないが、嫁さんの実家があるので、帰郷した際にはそちらに泊まる。札幌の自宅を離れるときにはネットからも離れることを心がけていることもあって、義母がとっている室蘭民報という地方紙に目を通すのがささやかな楽しみになっている。特に隔週で土曜日の朝刊に連載されている辺見庸の「水の透視画法」と題したコラムを読むのが半ば習慣になっている。嫁さんの実家に着くと、挨拶もそこそこに物置に束ねて置かれた室蘭民報のバックナンバーを漁る。古新聞をとっておいてくれるように頼んでいるわけではないので、すでに捨てられた後ということもあるが、それはそれでよし、そのコラムとの出会いは一種の運命だと思っている。亡父の七回忌の法要のために帰郷した先週の土曜日、室蘭民報の朝刊には「緋ぢりめんの不動明王/不逞と異風の消失」と副題のあるコラムが載っていた。その中で辺見庸が現代の平準化された景色を「歴史の死斑」と軽く突き放すように呼んでいるのが印象的だった。床擦れではない、死斑である、念のため。ちなみに、死斑とは死体の下面に生じる紫赤色の斑点のことで、重力により血液が沈下し毛細血管に充満するために生じる。比喩とはいえ、そのまま類推するなら、歴史の「死体」とは現代の社会そのものでありそれを構成する人間たちである。ではその「下面」とは何を誰を指すことになるのか。意味深長である。

…資本と商品経済とデジタル革命が、しかし、すべてを統べ、人の意識を収奪し、脱臭し、漂泊しつくし、不逞も異形も異風も商品として売れるか売れないかのただのファッションとなりさがりつつある。
 歴史の主体はいまや人ではなく、デジタル化した市場である。長じゅばんの入れ墨男などただちに「反社会的勢力」に分類され、警察に通報されるにちがいない。人のあかしは、もはやたんに支払い能力と同義である。そのような景色をなんと呼べばよいのか。ちょっというにはばかられるけれど、これは「歴史の死斑」というものではなかろうか。さて、これから起きること---それはたぶん資本への組織的な反抗ではなく、人間生体の原因不明のけいれんであろう。ほら、もうはじまっている。(『室蘭民報』2010年7月10日土曜日朝刊)