肉の心の声


しばらく歩いているとある敷居を越えることを体で覚えた。意識が、頭から体の方に切り替わる。すると、心が軽くなる。そんな敷居がある。毎朝写真を撮りながら歩いているので,その変化は撮った写真にもはっきりと表われる。敷居の手前ではいかにも頭で撮ったような写真が多く、敷居を越えた後では体ごと反応して撮ったような写真が増える。そんな敷居をぐいっと手前に引き寄せて、いつでもその気になれば、敷居を越えられるように心がけている。それは、脳を暴走させない体に備わった知恵のようなものなのかもしれないと思っていた。身体のリアリズムと言ってもいい。


そんな浅い散歩の文脈の素朴な考えに留まっていた私に、最近、二つの深い旅の文脈から魅力的な声が聞こえてきた。一つは先日紹介した川口有美子『逝かない身体』だった。そしてもう一つは藤原新也の『死ぬな生きろ』だった。『逝かない身体』では次のようなくだりに、私たちがまだそれを比喩でしか表現できない、直截に表現できる言葉を持っていない生と死が交換しあうような身体のリアルな地平を感じた。

 脳は人間の臓器のなかでもっとも重要で特別な臓器と思われているが、母は脳だけでなく心臓も胃腸も肝臓も膀胱も同じように萎縮させ、あらゆる動性を停滞させて植物化しようとしている。そして不思議なほどに体調の安定した生活が長く続いたのだが、これはよく解釈すれば、余計な思考や運動を止めて省エネルギーで安定した状態を保ち、長く生きていられるようにしていたということだろう。
 そう考えると「閉じ込める」という言葉も患者の実態をうまく表現できていない。むしろ草木の精霊のごとく魂は軽やかに放たれて、私たちと共に存在することだけにその本能が集中しているというふうに考えることだってできるのだ。すると、美しい一輪のカサブランカになった母のイメージが私の脳裏に像を結ぶようになり、母の命は身体に留まりながらも、すでにあらゆる煩悩から自由になっていると信じられたのである。
 このように考えていくと、私にはALSの別の姿が見えてきた。脳死とか植物状態と言われる人の幸福も認めないわけにはいかなくなってしまった。この時点での私の最大の関心事は、どちらの考え方を採用するかということだった。暗いほうか明るいほうか------。
 ここからは簡単だった。患者を哀れむのをやめて、ただ一緒にいられることを喜び、その魂の器である身体を温室に見立てて、蘭の花を育てるように大事に守ればよいのである。そして自分は何をすればよいのか、行動することを前提に物事の整理をはじめた。こうなれば、すべての病いにまつわる物事の優先順位は単純に並べ直すことができた。母のような人たちの命を守るために、できることからひとつずつ始めることにした。(川口有美子著『逝かない身体 ALS的日常を生きる』医学書院、2009年、200頁〜201頁、asin:4260010034




 死ぬな生きろ (SWITCH LIBRARY)


そして、藤原新也の『死ぬな生きろ』でも、「肉の心」と言われるリアルな身体の発見が深い主題になっていた。

 私は四国を巡ればいろいろな病が治癒するという言い伝えはずっと迷信だと思っていた。しかし治癒するとは単に身体の問題ではなく心のことだったのかも知れないと思うに至った。

(中略)

肉体はただのむくろではない。脳や心と同じく、いいやそれ以上の大きな名状し難い定理を持って“思考”している。あたかも自然そのもののように。
 かりにそれを肉の心としよう。
 その肉の心とは、もともと生きようとすることを前提に存在し「生きろ」「生きたい」という内なる言葉を有する希望的世界なのだ。そして人は誰しもその“生きたい”という肉の願いを持ってこの世に生まれ出る。だが時にその生存の過程で病んだ心が、その肉の心に蓋をする。
(中略)
 心を捨て、肉の側から立ち上がって来る命の意識を聴く。
 私は四国巡りの、あるいは旅の意味はここにあると思っている。(399頁〜400頁)


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