建築のディテール:長続きする世界の秘密


 西沢立衛建築設計事務所ディテール集 (建築文化シナジー)


建築家の西沢立衛(にしざわりゅうえ)さんによれば、建築の「ディテール」とは「納まり」すなわち「モノがどんな風に一緒にまとまってくれるか(how things come together)」ということである。それは建築にかぎらず、重要な観点だと思う。

たとえば、床や屋根があちこちに浮遊しているような建築的アイデアがあるとして、その風景を頭の中に思うとき、僕は、というか建築家であればたぶん誰でも、どこが構造でどこが非構造かとか、屋根と壁がどうぶつかって、どうまとまるのかということのイメージをも、同時に想像する。それによって、全体として納まりそうだなとか、納まらなさそうだなとかという判断をする。案をボツにするとき、「納まらなさそう」というそれだけでボツにしてしまったりすることすらある。「いろんな物がどう一緒にまとまってくれるか」を思うこと、それは、壁とか屋根とか構造体とか、もしくは台所とかリビングとか庭とかの全部が集合して、ひとつの世界、ひとつの建築の姿がつくられる、そういう建築的な全体像を、頭の中でつくり上げてみることでもある。そういう意味で言えば、ディテール、納まりを考えるということは、そのまま建築的創造のことなのだ。ディテールという世界には、物はこういうふうに集合すべきだという建築家の価値観が、如実に出てくる。建築家によっては、非常にミニマルに厳格に、全部をビシッと納めなければ気がすまない人もいるだろうし、逆に、全部が乱痴気騒ぎみたいにごちゃごちゃになったラフな状態でないとダメなんだと考える人もいるだろう。そのどちらにしても、そういうディテールの風景は、そのまま建築の風景でもある。だから、建築家が自分のディテール集をつくれば、それはその人の建築観みたいなものが、隠しようもなく出てくるであろうと思われる。


そういうわけで、本書では、西沢さんは惜しげもなく、「きちっと製図されたCADの詳細図だけでなく、自分がディテールについて苦闘しているスケッチやダイヤグラム、文章など」を公開している。というのも、彼の考えでは、ディテールの表現にとっては、線画よりも、「面、色が塗られた面というものによって、各部位とそれらの関係がはっきりわかるような、色彩豊かな描写」の方が相応しいからである。たしかに、実際に「各々の部材に色をつけていくと、物と物のダイナミックな関係が、よりダイレクトにわかるようになる。また物が集合してひとつの世界を形成してゆく様子がよくわかる」。


本書で取りあげられている事例の中で一番感心したのは、ある住宅の設計における「植栽計画」の部分だった。

HOUSE A, 2004-2006

古い木造住宅が密集する住宅地に建つ住宅である。クライアントからの要望としては、パーティーが開けるような大きなスペースをどこかに設けたいということ。ゲストが泊まれる部屋、寝室、ダイニングキッチン、浴室など。敷地は南北方向に長い形状をしていて、東西の隣地側にはすぐ近くまで木造家屋が迫って建つような、高密度に建て込んだ場所である。環境としては若干暗めと感じた。そこで、各部屋を数珠つなぎ状に並べつつそれをずらして配置していくことで、ズレから光を取り込んで、全体に明るい環境をつくり出せるのではないかと考えた。

(中略)


植栽計画

ずらしたことによってできた隙間に庭をつくり、たくさんの植物を植えていった。大きな木は山へ行って、1本1本枝振りを見ながら、かわいい木を選んだ。5月と10月に花を咲かせる十月桜や、夏に花をつけるサルスベリ、実のなるレモンやはっさく、ブルーベリーなど季節によって楽しめるような植栽計画にしている。


この植栽計画の「検討メモ」の住宅平面図では、トネリコソメイヨシノ、10月桜、サルスベリ、オリーブ、レモン、はっさく、姫リンゴ、ブルーベリーの各植物を表わす色彩と表情の豊かな記号がリズミカルに配置され、それ自体が芸術作品のように見えるほどである。しかも、それらの植物の開花や結実の時期などの特徴をまとめたメモまでが付されている。


こんなディテール集を見ていると、彼が主体としての建築家が「いろんな物をどう一緒にまとめるか」という能動的な表現を避けて、あたかも物たちが主体であるかのような、「いろんな物がどう一緒にまとまってくれるか」という自発的な表現をしたことの意味が少しずつ明らかになってくる。物たちが浅く狭い視野で強引に一緒にまとめられた世界は長続きしない。物たちの関係を時間をかけてじっくりと深く広く見ること。そのために無駄とも思われかねない色彩豊かな描写を何枚も描く労力を厭わず、むしろそれを楽しみながら、彼らがいわば自然と一緒にまとまってくれるのを待つこと。そうして出来上がる世界はきっと長続きする。彼のいう「物」を「言葉」や「人」に置きかえても同じようなことが言えるだろう。


参照


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