建築言語と植物言語




二週間前の日曜日、日本海方面に向かう途中、たしか当別町の山中で、こんな水田のある風景に目を奪われた。


ただし目が釘付けになったのは水田ではなく、農家の住宅から少し離れた倉庫の前に聳える一本のハルニレだった。背後の小山よりもわずかに高かった。なぜそんなに心惹かれたのかその時はよく分からなかった。過去に似たような樹木のある農家の風景に惹かれた経験がある。なぜだろう?



集落の教え100

集落の教え100


その後、建築家の原広司著『集落の教え 100』を読んでいて、56番目の「樹木」の教えに目がとまった。

[56]樹木

樹木に寄りかかるな。樹木を際立たせよ。
樹木に知性を吸い取られぬよう、緊張しつづけることだ。


詩のように分かりにくいこのキーフレーズは次のように解説されている。

 樹木はそれ自体シェルターとしてのはたらきをもつから、建物をつくるにあたって、樹木に頼る心が出てしまう。その甘えが、建築的な知を情緒に置き換えてしまうおそれが多分にみられる。樹木はまさに、誘惑者なのである。
 かといって、樹木を排除せよという意味ではない。そうではなくて、逆に一本の樹木にさえ匹敵できるような建築はとてもできないのだから、樹木の存在にこそ、深い敬意を払わなくてはならないのである。インドの集落のように、樹木を際立たせるような建築をつくらなくてはならない。(118頁)


なるほど。これかもしれないと少し腑に落ちた。つまり、樹木を頼るのでもなく、排除するのでもなく、その存在に深い敬意を払うために、一種の闘いのような工夫をすること。二週間前に私が目を奪われた稲作農家の空間では、それは集落ではなかったし、原広司のいう「建築的な知」の観点からでもなかったが、人間が暮らす空間のデザインとして、まさに一本のハルニレの存在に「深い敬意」が払われていると直観したのだろう。


ところで、原広司はあくまで建築家としていわば建築言語の極限にまで突き進むようにして語っているが、私にとっては、そうして到達した表現が薄い膜一枚隔てて接している「むこう側」に強い関心がある。いわば樹木言語、植物言語の方に。たとえ幻想と言われようと、樹木の「存在」を「言語」に翻訳したい。そんな欲望を抱いている。毎朝性懲りもなく植物の写真を撮り続けているのは、その準備体操のようなものだと言えるかもしれない。畢竟、建築も共同幻想にすぎないのだから、植物言語を夢想する幻想も許されないことはないだろう。