あ、私が光っている!

かつて釈迦は菩提樹の下で、暁の明星のまたたきを一見して、「無我の我」という「本来の自己」を自覚したといわれる。そのとき、彼は「あ、私が光っている!」と叫んだらしい(秋月龍珉著『無門関を読む』41頁)。


無門関を読む (講談社学術文庫)

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無門関 (岩波文庫)

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「あ、光っている!」ではない。あくまで「あ、私が光っている!」である。「私」が入っている。この違いは大きい。普通、この言は「主客未分以前」の“純粋経験”の位相から発せられたものであると解釈されているようだが、そこからはちょっとズレているように感じる。というのは、いったん主客が分離した世界を生き始めた私は主客未分以前に戻ることはできないはずだからである。深い瞑想などの修行を通じて、主客分離以降の世界を克服できるとするなら、それは主客未分以前に戻ることではなくて、分離した主客を包摂するような新たな位相に立つということではないか。それはおそらく、一旦は分離された主客が入れ替わるというか反転しあうというか、そういうフレキシブルな位相のような気がする。だから、「あ、私が光っている!」は、あくまで暁の空で「私」が光っているのだ。「私」は「暁の明星」に成るのだ。