甲斐大策のアフガニスタン彷徨

どうして僕はこんなところに

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Penguin Classics Road To Oxiana

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ブルース・チャトウィンは、ソ連アフガニスタン侵攻(1979年)の翌年に怒りをこめて「アフガニスタン哀歌」を書いた。その中でチャトウィンは、アフガニスタンを「劣等感に苛まれていないアジア」と評したロバート・バイロンの深い認識に敬意を払いつつ、愚かな連中が「中央アジアの眠れる巨人」の眠りを妨げたがために起こった無益この上ない争いは、愚かな連中が愚かな夢から目覚めるまで続くであろうと予言した。その予言は的中した。


アジア回廊

アジア回廊


ブルース・チャトウィンよりも3つ歳上の画家・甲斐大策は60年代末からほぼ毎年アフガニスタンを訪れ、現地の人々と深く交わり、一緒に戦ったりもし、そのうちムスリムイスラム名アブドゥッラー)になってしまったという稀有な経歴の持ち主である。甲斐大策は、かつて中上健次五木寛之松岡正剛が、こんな男がいたとは! と興奮気味に語ったという、ある意味で伝説的人物でさえあるが、しかし、本人はいたって自然体である。あるタイプの研究者やジャーナリストや従軍カメラマンや冒険家が陥りがちな無神経さや傲慢さや気負いや使命感やナルシシズムなどとは無縁である。やはり画家として大陸を彷徨した父の巳八郎を通して濃厚に受け継いだ「アジア」のDNAが彼の全身の細胞を絶え間なくアジアへと、とりわけアフガニスタンへと駆り立てるらしい。その得体の知れない力に逆らえないだけのようだ。それを彼は一種の「恋」心とも表現する。しかも、彼はあくまで一人の「日本人」としてアジアの市井の人々の中にお邪魔しながら、正直につぶやく。「土地や家を求めず、世間が決める価値観に背を向け、世界の平均よりも高価なそのくせ恰好ばかりの食べ物には手を出さず、許される範囲で勝手に生きてはいても、最低限の金は要ります。質素な旅にも金は要ります。宮澤賢治のように清くはないが、ああなれたらいいなァ、と思う私です。しかし、私には未だ未だ果てしなく慾がある。あそこにもここにも行ってみたい、あれもしたい、これもしたい、……どうしても何がしかの金が要る。その金を得る手だては日本の社会に組み込まれています。これ以上ここにいると私の大好きな人々に迷惑をかけてしまいます。日本に戻るしかありません」(『アジア回廊』127頁)。


自分で選んだわけではないが、気づいたら背負ってしまっている宿命をただ嘆くのではなく、そこからどこまで行けるか、とにかく歩いてみる。歩いてみたら、思いがけなくも、色んな道があちこちの魅力的な場所に通じていることを発見し、止まれなくなってしまった。甲斐大策はそんな歩き方を続けているようだ。例えば、下に引用する「アフガニスタン彷徨」の中の「マザーリシャリフの茶店」と題した短文には彼の自然な振舞いとまなざしの深さがよくあらわれている。

 マザーリシャリフは、アフガニスタン北部、アフガン・トルキスタンとよばれることもある地方の、イスラム四代目の指導者アリーにまつわる廟で名高い町である。中央アジアの大平原はこの町あたりから始まり、アム・ダリヤの流れも、北の方へさほど遠くない(三上注:ロバート・バイロンの『オクシアーナへの道』の「オクシアーナ」とはこのアムダリヤ川流域の土地の名称である)。馬、馬具、じゅうたん、メロン、カラクル(アストラカン)……この町を中心に集散する名物はすべて、中央アジアをさまざまにあこがれる人々の夢に必要な小道具であり、往来する人々の種々の顔つきとそのいで立ちはロマンの主役たちであり、この町から始まる丘や遺跡、平原や沙漠や風は、もの想う舞台としては完璧である。
 チャイハナ(茶店)に入る。名高いマザールのじゅうたんは、赤や黒や白の独特のデザインでさり気なく床を埋めている。大地につながる泥の床は、少々高かったり、ときには1メートルくらい高めてあったりもして、店内の空間を豊かにしている。あぐらをかいて座り込む時、使いこまれたじゅうたんのもつ暖かさが、つみ上げた泥と大地と人々を見事につなぎ、心の底から落ち着かせてくれる。
 人々は静かに話し、ラジオに耳を傾け、シャトランジュ(一種の将棋)を指し、そしてゆっくりと茶を楽しむ。緑茶であったり紅茶であったりする。新しい客の注文の声が最も大きい。
 『オー・バチャ。セ・チャイ・サウズ。ド・チャイ・スィアー・ビアリ!』『バリ・アガ』
 金銀の花文字のクラーンが飾るマッカ(メッカ)のカーバ神殿を描いたガラス絵、お守り札、それが赤、青、緑、黄、黒……と壁にあり、人々のコラァ(帽子)やルンギィ(頭の布)やチャパン(外套)が、洗いさらされ、陽に焼けた色で床を埋めている。奥には泊まる人のための部屋が裸電球の下で暗い。
 横にいた老人は、私が頼んだお茶の遅いことを怒ってくれているし、四、五人の若者は私の娘を高い高いして喜ばせてくれている。
 「今持って行きます。すいません」
 バチャは茶の遅れを気にして走りまわる。しかも、あのバチャは、金曜日にはブズカシをやるというじゃないか。この町からバルフへ、シバルガンへと続く多くの丘がただものでないことや、近くの仏跡の年代を知っていることが、このバチャと対話する時何になるのだろう。
 私は、可能な限り、お茶を飲みたくなってやって来た一人の男として自然でありたいと思った。(『アジア回廊』50頁〜51頁)


最後の一文に、甲斐大策にとっての、自然であること、自然体とは、決して何も考えずに振る舞うということではなく、逆に異郷における己の存在の意味を考え抜いた末の決断の結果であることが窺える。