柳瀬正夢、伊藤武雄、原口統三の思い出


餃子ロード

餃子ロード


こんな面白い本が絶版のままとは勿体ない。20世紀が間もなく終る頃、甲斐大策は次のように皮肉たっぷりに書いた。

餃(子)*1を前にして大陸への想いを甦えらせる者たちは少なくなった。残る者たちも老境にある。1937年大連生まれの私は、餃(子)と大陸を結びつけてしまう者たちの最も若い世代といえる。
 19世紀末の日清戦争からほぼ半世紀、旧満洲遼寧省を中心に侵略と入植を重ねていった日本列島の人間たちが、彼我に多くの生命を奪い失い、生活と財産を破壊し破壊されて得たものとして、今日、巷に溢れるギョーザ以外眼にふれる存在はない。(甲斐大策『餃子ロード』石風社、1998年、12頁〜13頁)



柳瀬正夢(やなせ まさむ、1900年1月12日 - 1945年5月25日)


ねじ釘の如く―画家・柳瀬正夢の軌跡

ねじ釘の如く―画家・柳瀬正夢の軌跡




伊藤武雄(1895–1984


]


実録満鉄調査部〈上〉 (1983年)

実録満鉄調査部〈上〉 (1983年)

実録満鉄調査部〈下〉 (1979年)

実録満鉄調査部〈下〉 (1979年)



甲斐大策が生まれ育った家は大連市南山麓にあった。1943年6歳の時には、2年後に新宿駅近くで、米軍による空襲(いわゆる山の手空襲)の直撃弾を受けて亡くなる反骨の反戦画家といわれた柳瀬正夢が訪ねてきたり、また敗戦直後には、日本初のシンクタンクといわれた満鉄調査部伊藤武雄が訪ねてきたという。柳瀬正夢に関しては井出孫六の『ねじ釘の如く―画家・柳瀬正夢の軌跡』(岩波書店、1996年)が詳しい。伊藤武雄については甲斐大作の筆致は意味深長である。

 父が深く敬愛していた伊藤武雄先生が、その日、前ぶれもなく我が家に現れた。伊藤先生は、満鉄調査部を支えた大きなブレインのひとりだった。日本の敗色が濃くなった頃、伊藤先生をはじめ多くのスタッフは関東軍により逮捕投獄された。その思想と作業が利敵行為というのだった。
 調査部が行ってきたアジアと中国認識のための膨大な作業と成果は、今日でも公私を問わずどんな機関の追随をも許さない。
 少年時代、私にとって聖書にも等しかったアルセーニエフの『ウスリー紀行(デルスウ・ウザーラの物語として知られる)』やバイコフの『偉大なる王(虎の物語)』など旧ロシアの紀行・踏査記録、多くの文学作品の翻訳紹介も調査部の手を経ていた。
 しかし調査部の存在は、侵略企業としての満鉄と日本の植民地政策の下にあった。伊藤先生をはじめ、その思想の左傾も右傾も超えて集められた優秀なスタッフたち全員の大陸への愛情と中国文化への学術的情熱は、政府・軍部と真向から対立してゆく。(その間の事情は、草柳大蔵氏著『満鉄調査部』に詳しい。)
「足腰が元にもどらなくてね。」
 釈放された後、獄中でいためた身体を海近くの自宅で休めていた先生は、リハビリの散歩だったのである。
 微笑しておられたけれど、眉間に深く刻まれた縦皺と濃い眉の下の鋭い眼光が私には恐ろしかった。
 突然の来訪に母は急遽、水餃の残りを布巾で固め蒸して餅の体裁をととのえ、黄粉餅とした。
 餅の残りものがあったのだから、季節は冬だったのかも知れない。
 妙な取り合わせだった。「柳亭」から届いた鍋貼(クオディエ、焼きギョーザ)と黄粉餅を盆にのせ、私が運ぶことになった。
 先生は凛と胸を張って箸をとり、ゆっくりと、黄粉餅の皿を一方の手に持った。
「いただきます。」
 先生の声は怒鳴っているようで、部屋一杯にひびいた。私は怯えた。
 鬼面のようだった先生の顔が急に崩れ、頬が小さく震え、両眼に涙が盛り上がった。黄粉餅を口に運びながら喉の奥深く声を押し殺し、先生は嗚咽していた。
 両頬をぬらしていつまでも嗚咽していた先生と父の胸中を当時の私が理解できる筈はなかった。(甲斐大策『餃子ロード』石風社、1998年、15頁〜16頁)



原口統三(1927年1月14日–1946年10月25日)


定本 二十歳のエチュード (ちくま文庫)

定本 二十歳のエチュード (ちくま文庫)


さらに、甲斐家と同じ隣組には、「原口のおばあちゃん」と呼んでいた、頭髪の面倒を見てくれる上品な老婦人がいたという。原口家、、。

 敗戦後も原口夫人が私の頭髪を刈ってくれた。
 戦時中、原口家には、友人を伴った学生服の若者が帰ってくることがあった。当時私は、その人を“原口のお兄ちゃん”と呼んでいた。
 その人は、私を認めても微笑むわけではなく無視するのでもなかった。帽子の下に眼があった、としか印象になく容貌はおぼろげなままである。
 その人が、1946年10月25日、逗子の海に自ら生命を絶った原口家の末弟、統三さんだった。私が日本へ引き揚げて5、6年後、高校に入る前、遺稿集『二十歳のエチュード』に接した時、戦時にもかかわらず到達してしまっていた西欧近代の偽善への認識、純粋であることをあまりにも求める潔癖な詩人の魂に衝撃をうけた。“原口のお兄ちゃん”が、えらい速度で天空の彼方へ去った気がしたものである。
 私の頭を刈り終えた原口夫人は、母と静かな時間を過ごしていた。時にはそこにも世間話の点心として鍋貼があった。

「柳亭」(大連にあった小さな菜館)の鍋貼(クオディエ)を私は忘れない。学生時代から今日に到るまで、日本のどこで食べる鍋貼も、それは「焼きギョーザ」であって、引揚者文化が戦後の飢えの中で拡まった姿である。
 明治生まれの人々には、遣唐使たちのような強靭な意志と中国への深い尊敬があった。侵略を始めた者たちもまた明治の人々だった。
 理不尽と知りつつも国家の名の下に行動した人々の多くが、苦渋に満ちながら、中国とその周辺につづくアジアを識ろうと情熱を燃やし続けた。その男たちは、私の中の餃に深々とかかわり続けている。(甲斐大策『餃子ロード』石風社、1998年、17頁〜18頁)


幼少期大連におけるそんな人物たちとの出会いの経験の意味は長じてからだんだんと明らかになっていったのだとしても、意味や理解以前にまだ幼かった甲斐大策が全身で感受した実存的な声のようなものが、甲斐大策を深いところから大陸、アジアの旅へと駆り立ててきたように思われる。甲斐一家は1947年に福岡県宗像郡福間町に引き揚げた(宗像と言えば、森崎和江、宗像神社と言えば、海女に繋がる)。甲斐大策は11歳だった。しかし、大陸と列島を隔てる海や大地を分断する国境は彼の心を隔てたり分断したりはしなかった。1998年春、60歳をこえて甲斐大策は旅の人生を振り返りながら次のように書いた。

 ずっとアジアを旅している。11歳の時、北九州・宗像の、玄海に面した福間という小さな町に引き揚げてきたのだが、戦争末期までは父に伴なわれ、遼東半島各地や北京とその北を旅していたらしい。
 十代は九州の山々を、二十代は関西を主に本州を歩いた。今思えば、母国日本を旅している意識は希薄で、大陸から東アジアの列島へ行動の場を移したとしか感じていなかったようである。三十代に入り、自分の意志でアジアの旅がはじまった。アフガニスタンが起点になった。その後三十年、大陸の旅はつづいている、というよりはじまった、と思う気持が強い。
 土地それぞれの風に吹かれ、人々とゆっくり茶を飲み交わし、路傍に極くさり気なく在る食で腹を満たし縁あれば人と出会いたい、と漂うようになっていた。古蹟や遺物と向きあっても、何かを探ろうとするよりは、ただそこにいるだけでよいと考え、スケッチ・ブックやフィールド・ノートは、滅多に開かなくなった。より怠惰に過ごすべく出かけているとしかいえない。
 気づくと、北緯30度線と40度線にはさまれた帯の中を東へ西へ歩いていた。34度線あたりには、カーブル、ペシャワール西安、洛陽、北九州、奈良が、いま少し北寄りにはサマルカンドカシュガル、玉門、北京、大連、山形が並ぶ。意図したわけではないのに、それ等の土地にいた。
 心地よさを求めるだけの旅人にも、人々は、数千年くり返してきた、激しい生命の営みと哀しみを、呻きと共につきつける。戦場では、相対する者たち双方が、自由と独立を叫び血を流していた。
 クラーン(コーラン)はいう。
「ひと、おしなべて救いなし……。」
 しかし、イスラムの深い闇は時に、暖かくなめらかに母胎のようにすべてを包み、彼方に甘美な光を期待させもする。
 漢民族世界は、小さな露店の紅燈の背後の暗がりにさえ、果てしなくつづく深淵をうかがわせ、踏みこんだが最後戻ってこられない蠱惑(こわく)的な恐れを抱かせもする。
 さすらい歩く年月を重ねたそんなアジアでは東西にわたり、移動系の人々と定住系の人々が接壤しせめぎ合ってきた。そして、そこには、ほっとひと息つく時、世間話やその土地と人間を伝える便りの句読点みたいに餃(子)とその一族があった。(甲斐大策『餃子ロード』石風社、1998年、225頁〜227頁)


参照


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*1:『餃子ロード』215頁の註によれば、餃子の「子」は玉子、団子、菓子と同じく、小さく愛らしいものへの接尾辞。北京を中心とする北方的表現だが、今日「普通話(プトンホワ)」として漢民族すべてに共通の標準語を目指す中、この「子」や「児」は用いられない方向にある。本文では「餃」「鍋張」としている。