石から水へ?


十年前に清水徹は現在の電子出版の動向をほぼ正確に予測しつつ、書物の歴史における「電子革命」の進展によって私たちのイメージの世界における「書物」の状態がどう変化しつつあるかについて次のように語った。

《電子革命》とともに書物はわたしたちの想像界において「石」から「水」へという変貌を示しているかのようだ。

(中略)

重さをもってせまってくるものから、重さからの離脱としての軽さへ、いかつさから柔軟さへ、ざらざらしたものから滑らかなものへ、電子的エクリチュールはそんな変貌を感じさせる。しかし、いまの多くの著作家たちはパソコンを使って書いていても、そのテクストを伝統的な書物の形態で出版する場合が大多数であり、そこでは流動性、軽快性、柔軟性という想像界は消える。いやもしかしたら、《電子革命》以降の書物は、その側面のどこかで、流動、軽快、柔軟という電子的エクリチュールの作用を、いわば半透明で可動的な隔壁の向こうに位置させているのかもしれない。《究極の書物》と『賽の一振り』におけるマラルメの冒険以降、書物は、みずから意識するしないとにかかわらず、全体性と散乱とを両極とする亀裂を内部にかかえているのだから。

  『書物について その形而下学と形而上学』(岩波書店、2001年)352頁

 
たしかに、紙の本が想像界では固い「石」に近いとすれば、「電子的書物」や「電子的エクリチュール」は想像界では流動する「水」に近いと言えるかもしれない。ただし、そのような見方がコンピュータとネットワークのアーキテクチャーのどれだけ深い層にまで届いているかは速断できない。「水」というイメージの下にはどんなイメージが隠れているか分かったもんではない。