写真家と詩人の地名論


地名論―Genius loci,Tokyo

 写真が空間を写し、固定する道具であり、時間を止め、同時にその流れをすくい取る道具であり、さらには空間と時間の裏側に潜み、移ろっているものまで写し取る道具であることを、高梨豊が教えてくれる。時間と空間の後ろ側に流れるものが、深い哀しみであることもまた、教えてくれる。
 時は逝く。場所は消える。けれどそれを越えて生きつづける都市の深い哀しみを、彼は透明な股眼鏡を通して静かに静かに定着させる。都市に生きることの哀しみ、生きていることの本質のなかにある哀しみ、そして生命を受けとめている都市・場所そのものに横たわる哀しみにわれわれは気づく。


 勢いよく闊歩する若い男女のすがた、煌めきながら聳えるビルのすがた、先端の情報を流しつづける広告の上にも、透明な哀しみは静かに流れている。だからこそわれわれは眩しいほどの愛着を都市に抱く。幼いこどもにも、若すぎる世代にも、老いを迎えた世代にも、都市には「世界の果て」が満ちている。都市は決してそのすべてをわれわれに見せてはくれない。わずかに人生のそれぞれの時期に、われわれはその一部を垣間見るだけだ。だが、ひとりの写真家は、都市のなかの「世界の果て」を、僅かではあっても拡げてみせることができる。それがここに拡がっている。

  鈴木博之「地名論の世界−−高梨豊写真集に寄せて」より


なるほど。ただし、哀しいだけではないと思う。子供の頃には道の真ん中で股眼鏡(上体を前にかがめてサ,自分の股の間から後方をのぞいて見ることだヨ)して、簡単に世界を逆さにして遊ぶことができた。あの頃は世界の現実感はちょっとしたことで揺らぐことを知っていた。世界のど真ん中がいつでも世界の果てになることを知っていた。哀しいだけでなく滑稽でもある真実を。写真家はそんな子供の遊びを大人になっても続ける。


しかし、詩人はもっと過激だ。世界の果てすら突き抜けて、世界そのものを瓦礫の山にしてしまう。泣きながら笑うしかない。それこそ「地名」しか残らない。そして詩人はせめてそこに「雨」を降らす。



雨の新橋裏通り―アダルトショップの四千日


タイトルが詩になっている。詩人の國井克彦は47歳(1985年)から57歳(1995年)まで、約4000日にわたって、新橋の裏通りにあるオレンジ園なる薬局兼アダルトショップに勤めた。時代はバブル全盛期だった。本書は、いわば詩人による「地名論」である。