実在しない猹(チャー)

魯迅の「故郷」で一番印象的なのは、二十何年ぶりで帰郷した「私」が、母の一言によって稲妻の閃くごとくに蘇った子供時代の記憶のなかに「美しい故郷」のイメージを見出す場面である。そこに「猹(チャー)」が出てくる。

 その時、私の頭の中にはたちまち、一枚の神秘な絵図がひらめいてきた、深い藍色の空にかかった一輪の黄金色のまんまるい月、下の方は海辺の砂浜で、そこには見わたす限り果しない碧緑の西瓜、その間に一人の十一、二歳の少年がいる、首には銀の輪をかけ、手には一本の刺叉を握り、一匹の猹(チャー)[西瓜を食いにくる獣の名だが、実は想像上の動物] に向って懸命に突き刺す、その猹は身をかわして、反対に彼の股の下をくぐって逃げる。

 魯迅『阿Q正伝』増田渉訳、角川文庫


猹(チャー)には「西瓜を食いにくる獣の名だが、実は想像上の動物」という訳注が付されているが、オンライン中日辞書「北辞郎」の管理人でもあるタケウチさんが「ePub版「故郷」の作成と日中混在の注意点など」(KARAK)で書いているように、「『猹』という漢字は、日本語のフォントには含まれていない」。つまり、猹(チャー)は日本語環境には通常「存在」しない。だが、それだけに日本語に翻訳された「故郷」における美しい故郷のイメージにふさわしいと感じる。ちなみに。原文には注は付されていない。

这时候,我的脑里忽然闪出一幅神异的图画来:深蓝的天空中挂着一轮金黄的圆月,下面是海边的沙地,都种着一望无际的碧绿的西瓜,其间有一个十一二岁的少年,项带银圈,手捏一柄钢叉,向一匹猹尽力的刺去,那猹却将身一扭,反从他的胯下逃走了。

 鲁迅小说《故乡》