納沙布岬にて
2010年(平成22年)3月31日をもって海上保安庁所管の霧信号所がすべて廃止となり、それを惜しむ地元の声を拾ったニュースに耳をそばだてたことをよく覚えている。船舶の汽笛を含めて霧笛と呼ばれてきた音の信号は、霧や吹雪によって視界を遮られることの多い海岸地域では長年にわたって独特の音の風景を形作ってきた。霧笛が耳の奥から全身にしみついている人たちにとっては、単なる技術の進歩としては片づけられない、にわかには受けいれられない事実として、微かに身を切られるような思いがしたであろうと想像したものだった。
私が先日、釧路や根室で遭遇した深い霧の話を聞いた苅谷さんは「霧の夜は霧笛がよく鳴ったもんだ。あれは、ほんとに寂しい音でなあ、、」と懐かしそうに言った。それが想起のきっけになったらしく、苅谷さんは釧路と北九州の炭鉱で働いていた戦前、戦中のきわどい体験談を映画のワンシーンのごとく次々と語りはじめた。一歩間違えれば自分が死んでいた情景、あるいは目の前で自分と偶然入れ替わるようにして人が死んでいった情景を他人の逸話のように語った。あっけにとられた私はその話に不器用に相づちを打ちながら耳を傾けていた。苅谷さんは私の相づちなど聞こえないかのように、まるで耳の底に今でも残響する霧笛の音に導かれるかのように、辛く悲しいはずの情景を驚くほど鮮明に語りつづけ、最後は笑ってこう言った。「今となっては、全部、いい思い出だ」去年の秋に三度目の心臓のペースメーカー交換手術を終えた後、苅谷さんは煙草をきっぱり断った。十二、三の頃から喫みはじめて、八十過ぎてもまだ生きてるんだから、体に悪いと言われてもなあ、今でも喫みたくなることがあるし、いつでも喫める、と自分に言い聞かせるように言いながら、そうする気はまったくなさそうだった。少量になったが、晩酌は欠かさない、と言う。酒も断ったら、何の楽しみもなくなっちまう、と言ってからからと笑った。
他人は言うまでもなく、自分自身さえ、霧に遮られ、はっきりとは見えない。人生の少なくとも裏側ではレーダーやGPSは何の役にも立たない。お互いに発する霧笛のような信号がかろうじてお互いの距離を知らせてくれる。
参照