レンズと翻訳




亡父の遺品の一部。レンズはニッコール28mmF3.5(上)、ニッコール35〜70mmF3.5(中)、ニッコール35〜70mmF3.5–4.8(下)。




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本書では「すべてのレンズに神は宿る」をモットーに、ただひとつを除いて私の知らないレンズばかりが次々と取り上げられ、それぞれのレンズの個性が愛情を込めて丁寧に語られている。その唯一の例外とは、なんと「虫メガネ」である。飯田鉄氏は小学生の頃の虫メガネの体験を振り返ってこう語っている。

 レンズの驚きを最初に知ったのは、虫メガネであった。どの家庭にも必ず一つはあるような簡単な虫メガネだったが、物心がつくにつれ、それで周囲の品物を覗いてみるのが楽しかった。盛り上がった曲線を有したほとんど無色のガラスを通すと、近くのもの全てが大きく見え、微細な部分がくっきりと自分の眼に映じ込む。どうしてそう見えるかという理由も考えることもなく、まるで自分が小人であるかのような気持ちになるのだ。たとえば畳の目を覗けば、自分が畳を這う小さな虫であるような、また障子の桟を覗くと拭き残された埃が、灰色の巨大な草叢を作っているのである。こんな事を私は飽きずにずっと繰り返していたのだが、皆さんにもきっと覚えがあることだと思う。
 大仰に言えば、まるで、パスカル的な宇宙への入口を虫メガネは教えてくれた訳だが、逆に虫メガネのレンズが世界を縮める働きをすることに気づくのも同時のことだったのだろう。手許の紙に、あるいは白い壁に虫メガネの焦点を結ぶようにすれば、反対側の世界が倒立の小さな像になって映し出されるのを知り、窓から通りの眺めをノートの一ページに投影させたり、天井の電球を読みかけの少年雑誌の余白に映し出して面白く思っていたのである。まるで写真技術の前史そのままだが、写真機の仕組みそのものを知らない小学生は小さな虫メガネの驚異が楽しくてしょうがなかったのだ。(97頁)


そんな虫メガネは、飯田鉄氏のレンズとの長い付き合いの原点ともいえるレンズだった。

虫メガネのレンズを使って、綺麗な花の写真集を作り上げた写真家もいるけれど、私の場合、ずっと以前の虫メガネの映像の驚異にいつでも立ち戻れること、意味があるのか、ないのか分明でない写真を撮るという行為の底に、一個の虫メガネがあるのを覚えていたいと思うのである。(100頁)


ところで、虫メガネが純粋な一枚物ではなく、二枚重ねあるいは三枚重ねのレンズであるのと同様、「写真用レンズで純粋に一枚レンズというのはごく少ないようで、一枚玉といっても、そのほとんどが張り合わせである」(100頁)という事実に改めて軽い驚きを覚えていた。というのも、写真が世界の光学的、視覚的な翻訳であるとすれば、そのためのレンズが純粋な一枚玉でなく、張り合わせのレンズの、しかも通常は複数枚の組み合わせであるという事実は、写真以外の経験にも通じることだと感じたからである。たとえばもしフランス語で書かれた本の日本語による翻訳は、日本語が持つ様々な張り合わせのレンズの組み合わせのようなものであると考えるならば、その個々のレンズの仕上がり具合と組み合わせ方次第で、元のフランス語で書かれた内容に限りなく近づくことができたり、場合によっては限りなく遠ざかったりもするのではないか。そんな空想に耽っていた。