夏椿、ネクタリン、朝鮮姫黄楊、白樺染め、プラタナス、七竃


ナツツバキ(夏椿, Japanese stewartia, Stewartia pseudocamellia




ネクタリン(Nectarine, Amygdalus persica var. nectarina



チョウセンヒメツゲ(朝鮮姫黄楊, Korean boxwood, Buxus microphylla var. insularis




未詳1






シラカバ(白樺, Japanese white birch, Betula platyphylla var. japonica


白樺の樹皮からは赤色の染液が抽出され、無媒染では淡紅色、灰汁(あく)で媒染すると鼠色、酸化アルミニウムで媒染すると黄茶色、硫酸銅で媒染すると渋い黄茶色、塩化第一鉄で媒染すると青鼠色に染まるという。


参照



色を奏でる (ちくま文庫)

 植物の場合、もっとも自然な美しい色彩を得るには、梅には梅の灰汁、桜には桜の灰汁で媒染するのがよい。みずからの灰で、みずからを発色させる。(志村ふくみ『色を奏でる』81頁)


志村ふくみさんに倣えば、白樺の場合は鼠色(dark gray)がもっとも自然で美しいということになるが、その鼠色の特徴について志村ふくみさんは次のように書いている。



一色一生 (講談社文芸文庫―現代日本のエッセイ)

 四十八茶百鼠といわれるほど、われわれ日本人は百にちかい鼠を見わける大変な眼力をもっています。それはむしろ、聞きわける、嗅ぎわける、殆ど五感全体のひらめきによるものと思います。
 楊梅(やまもも)、橡(つるばみ、[クヌギの古名])、五倍子(ふし、[ヌルデの若芽や若葉などにアブラムシが寄生してできる虫こぶ])、榛(はしばみ)、栃、梅、桜、蓬、現の証拠、薔薇、野草、およそ山野にある植物すべてから鼠色が染め出せるのです。しかも一つとして同じ色はないのです。百種の植物があれば、百色の鼠がでるわけですし、採集場所や時期の違い、媒染の変化などで、百の百倍ほどの色が出るのではないでしょうか。
 それほど複雑微妙な鼠色はいくら染めてもあきのこない尽きぬ情趣をもっていて、それが「和」「静寂」「謙譲」など日本人の好む性情にぴったりなのでしょう。私にとっても、鼠色は、よごれ白(あわいベージュ、これも鼠の出る植物から殆ど出ます)とともに、今日までどんなに苦境を救ってもらったことか。常に伏兵であり、援軍であり、あらゆる色の調整役をつとめてくれました。鼠色は己を殺して、他を生かし、あらゆる色をやさしく包みこんでくれます。いわば地の色、カンバスです。
 江戸末期につけられたその名も、銀鼠、素鼠、時雨鼠、深川鼠、数寄屋鼠、源氏鼠、夕顔鼠等、鼠という色が、黒から白に移行する無色感覚の段階であるために、どんな名を冠しても、一つの情緒的な世界をかもし出すことができたのでしょう。夕顔鼠など、たそがれに白々と咲く夕顔に翳の射す情景を想像したのですが、その色は紫がかった茶鼠色なのです。
 音階でいえば、半音階のまた半音とでもいいたい色合いで、一つの音と音の間にどれほど複雑な音がひそんでいるか。それは色においてもおなじことです。しかも植物染料ではその一つ一つが異なった植物からとれる色であれば、一つの色の純度を守る以外に、その色を正しく使うことは出来ないのです。いいかえれば植物の色を染めることは、その植物の色の純度を守ることです。これは植物染料をあつかう上で、最も基本的な態度だと思います。
 過去において、繊細を極めた日本人の色彩感覚が、そのあたりまで掘り下げられていたとしたら、われわれはその道すじを絶やしてはならないと思います。(志村ふくみ『一色一生』29頁〜30頁、[]内は三上の注釈)


ちなみに、「半音階」を意味する英語chromaticはギリシャ語由来で「色」をも意味する。


また、植物染料にはそもそも灰色(gray)が交じっているという次のような指摘も大変興味深い。

 ジャコメッティは「すべての色の基調は灰色だ。パリが好きなのもその灰色のためだし、人生そのものが灰色ではないか」と言った。それにたいして宇佐見英治さんは、「人生はもともと灰色ではあるけれど、三日のうち二日が灰色で、一日が薔薇色に感じられたら、それは最良の日ではないだろうか」と答えたと言う。
 その一日の薔薇色は灰色の磨りガラスをとおして見える薔薇色ではないかと、そう思ったのは私である。
 すべての植物染料の基調色もじつは灰色なのである。植物を炊き出した液の中に何が交じっているのか。樹液か夾雑物か、アルファが交じっていて、それがすべての色彩に灰色の紗幕(ヴェール)をかける。
 植物染料の色がどこかしっとりと落ついているといわれるのはそのためである。化学染料のようにきっちり割り切れるものではなく、どこかに不純物が交じっているが、色そのものはそのために濁るのではなく、本来の色をきわ立たせる。
 不純物が交じりながら純粋な色彩というのは、一見矛盾しているようであるが、事実なのである。この場合、色が影を宿しているといえばよいのか。灰色はその影の部分、いたわりとやさしさの部分なのである。(志村ふくみ『色を奏でる』88頁〜89頁)



プラタナス(紅葉葉鈴懸の木, London plane or Sycamore, Platanus acerifolia




未詳2



ナナカマド(七竃, Japanese rowan, Sorbus commixta


(追記)ストラスブール在住の言語学者兼作曲家である小島剛一さんからのコメント。

志村ふくみさんは、いい文章を書きますね。一つだけ、音階に譬えた箇所が残念です。「音階でいえば、半音階のまた半音とでもいいたい色合いで、一つの音と音の間にどれほど複雑な音がひそんでいるか。それは色においてもおなじことです」と書いているそうですが、音に関するこの譬えは、色に関してあれほど敏感な方のものとしては、不満足です。

一つ、純正調では(= ピアノやエレクトーンの平均律とは違う、バイオリンやギターでなら弾ける自然の音階では)嬰ト(シャープの付いた「ソ」)と変イ(フラットの付いた「ラ」)の間には全音の九分の一程の違いがあります。「半音の半分(= 全音の四分の一)」よりも遥かに細かい違いがあるため、世界各地の民族音楽で「全く違った音」として機能するのです。そしてその「九分の一程」よりももっと細かい違いも無限にあります。

二つ、この文章に現れる限り、志村さんは音に具わっている特徴のうち「高さ」だけに目を付けていますが、音を色に譬えるなら「高さ」ではなく「音色」のほうにしていただきたかったと思います。同じ高さの音でも楽器の種類によって異なった音が出ますし、同じ楽器でも弾く人(吹く人、打つ人)によって音色は違います。同じ歌でも歌う人によって声の質も曲想の付け方も違いますから、一人一人別の趣(おもむき)があります。染物の色に「色合い」と「明暗」に加えて「透明度」「輝度」「繊維の材質」などがあるように、楽音には「高さ」「大きさ」「強さ」だけでなく「音色」があるのです。

 小島剛一、2012年3月13日


なるほど。私が引用したのは染織の染の段階の話で、織の段階の話では、志村ふくみさんは「音色」をはじめとして音楽的な譬えを多用している。その織の話はいずれ改めて書きたいと思う。