明日、広場で―ヨーロッパ1989‐1994 (移動鏡シリーズ)
ベルリンの壁が崩壊し(1989年)、ソ連邦が解体した(1991年)、正に激動の時代に東欧を旅した記録、17年前に出た港千尋さんの東欧写真集『明日、広場で ヨーロッパ1989–1994』に収録された紀行文を読んでいたら、「ルテニア」が出てきて驚いた。
金属元素Ru−−−ルテニウム。辞書をひくと、カルパチア山脈の南麓に広がるルテニア地方産の鉱石から発見されたという希少金属の名に続いて、ルテニアが出てくる。辞書ではチェコスロヴァキア共和国東部の旧称になっている。
ルテニウムは存在するが、ルテニアという国は地図にない。今までもなかったし、これからもないだろう。ルテニアは辺境だ。ポーランド、ウクライナ、ルーマニア、ハンガリー、スロヴァキアという中欧5ヵ国の国境地帯にある。どの国にとっても辺境だから、5重の辺境だ。5重の辺境は遠い。
港千尋『明日、広場で ヨーロッパ1989–1994』(新潮社、1995年)16頁〜17頁
驚いたというのは、五年前にアンディ・ウォーホルについて次のように書いたとき、「ルテニア」や「ヴァルホラ」という言葉に、彼の複雑な来歴、ルテニア移民の世代を超えた複雑な記憶を朧げながら見た気がしたのを思い出したからである。
アンディ・ウォーホル(Andy Warhol, 1928-1987)に関しては知らない人のほうが少ないだろう。彼をポップアートの代名詞にした、キャンベル・スープ缶やコカコーラの瓶などをモチーフにした絵画作品やマリリン・モンローやエルビス・プレスリーなど有名人のシルクスクリーン作品も見たことのない人のほうが少ないだろう。しかし、あまり知られていないことが二つある。彼はチェコスロヴァキア(現在のスロヴァキア)からの移民二世であり、父親は
ロシア語方言ルテニア語(言語学者の小島剛一さんによれば、「ルテニア人は、1596年以来『ローマ教皇を仰ぎ、教義上カトリック教に帰依しているが、典礼は帰依する以前のものを続けている東方教会の一つ』を構成しています。ウクライナ正教とも、勿論のことロシア正教とも、違うのです。だから『ウクライナ人』でも、まして『ロシア人』でもありません。民族意識は『ルテニア人』、話す言葉は『ルテニア語』です。ルテニア語は、東スラヴ語の一種ですからウクライナ語、白ロシア語、ロシア語と近縁ですが、『ウクライナ語は、ロシア語の方言ではない』ように、ルテニア語も『ロシア語の方言』ではありません。『ロシア語の方言』と見做すのは、ロシア中心主義者・ロシア帝国主義者の政治的な主張です」)を話すルテニア人だったこと(いつもカタカナ表記する際に戸惑う変わった姓"Warhol"は父方のスロバキア語の「ヴァルホラ(Warhola)」に由来するようだ)。遺作がレーニンのポートレイト「レッド・レーニン」(1986)であること(このあたりにはアンディ・ウォーホルの前衛的、実験的活動を促した最も深い動機を探ることができそうだ。レーニンの地下活動とニューヨークのアンダーグラウンド・アートの活動との関係など)。
1991年の冬のある日、港千尋さんは地図にない「5重の辺境」の地、ルテニアに向かっていた。東スロヴァキアの古都コシーチェから車でポーランド国境へと向かい、国境手前の村メジラボルチェ(Medzilaborce)に着いた直後、彼は「まさか」の遭遇をした。
ここがルテニアかと聞くと、彼(運転手のこと)は肩をすくめた。
ネギ坊主屋根の正教会が建っている丘にのぼると、横殴りの雪の向こうに大人の身長ほどもある大きな円柱が2本見える。赤白のカラーは、スーパーの看板だろうか。丘を降りると、円柱は巨大な缶詰だった。キャンベル・スープ缶だ。するとここは輸入品を売るスーパーマーケットだろうか。まさかアンディ・ウォーホルの代表作『キャンベル・スープ缶』ではないだろう。だが缶詰の間を入ると、そこは、まさかだった。メジラボルチェのウォーホル美術館なのだ。なぜこんなものがカルパチア山の寒村にあるのだ。驚いていると、英語を話す人間が中から出てきた。アレクサンドル・フランコという名の館長の話。「どうしてこんなところに、と思ったでしょう。ウォーホルが移民の子だということは知られていますね。第1次大戦後に移民した彼の両親は、ここの出身だった。あの時代、ルテニアからも多く人がアメリカに移住した。数年前ニューヨークでウォーホルが亡くなったとき、記念にシルクが一枚、このメジラボルチェの町に贈られたのです。すべてはそれから始まった。この公民館を学生たちと改修し、代表作を12点ほど借りて、3か月前にオープンしたばかりです。
ルテニアで最初の現代美術館ですよ。ルテニアといっても分からないでしょう。いままでは、ウクライナと言わなければならなかった。私だってつい3年前までは、ルテニア人とは言えなかった。ルテニアの言葉も宗教も禁じられていたんです。ところがソ連がこういうことになって、私も自分のことをルテニア人だと言えるようになった。先月にはここで最初のルテニア再生のための民族会議が開かれました。信じられないことですよ。ウクライナ人が民族であるというのと同じ意味でルテニア人も一民族だと言えたんですからね。メジラボルチェなんて、以前は誰も知らないし、立ち止まる人もいなかった。なのにいまは会議も開かれ、ホテルもある。すべては美術館から始まったんです。(中略)もちろん20世紀美術を代表するウォーホルが、ルテニア文化の象徴だという気はさらさらありません。彼は正真正銘のアメリカ人だ。でもその作品のために、ここルテニアに人が来るようになったら、いいじゃあありませんか。私はこうやって国境は透明になるべきだと考えているんです」一種の村興し、あるいは民族興しだろうか。入り口で絵葉書といっしょに、ウォーホルの顔写真が印刷されたスープ缶が売られている。美術館のオリジナルだろう。フランコ館長はニヤッと笑いながら、中身は本物のトマトスープだからいざというときは食べられますよ、と言った。今年の寒い冬が、そのいざというときになるのだろうか。
村にひとつしかないレストランに入ると、何も言わないのに、熱いスープが出てきた。凍えた身体に流れ込んだスープは不思議な味がした。
港千尋『明日、広場で ヨーロッパ1989–1994』(新潮社、1995年)18頁〜19頁
ウォーホルが亡くなった時にメジラボルチェの町に贈られたという一枚の「シルク」とは彼のシルクスクリーン(スクリーンプリント)の作品のことだろうか。絹のスクリーンの多数の小さな孔をインクが通過するイメージが、フランコ館長の「国境は透明になるべきだ」という言葉に重なる。そして慣れ親しんだ「アンディ・ウォーホル(Andy Warhol)」という比較的滑らかな音が、ルテニア移民の複雑な記憶に反響して、「アンディホ・ヴァルホラ(Andiho Warhola)」という遠い呼びかけのようにも感じられる谺となって返ってくる。そんな思いにとらわれる。
この文章が書かれてからすでに17年以上経つが、丘の上に建つ「ネギ坊主屋根の正教会」と「ウォーホル美術館」は今も健在である。グーグルマップで「メジラボルチェ(Medzilaborce)」を検索し、衛星写真に切り替えて拡大すると、緑の丘の上にある「ネギ坊主屋根の正教会」が確認できる。そして丘を降りた正面に教会よりもかなり大きな「アンディ・ウォーホル(アンディホ・ヴァルホラ)現代美術館(Múzeum moderného umenia Andyho Warhola)」の建物、丘を降りて右に行くと「アンディ・ウォーホル(アンディホ・ヴァルホラ、Andyho Warhola)」通りに面した「ペンション・アンディ(Penzión Andy)」というゲストハウスの建物も確認できる。