間道を行く、坂入尚文さんの旅



間道―見世物とテキヤの領域


カバーのイラストは坂入尚文さんが企画し、1994年にパリで開催されたイベント「縁日風景 '94–PARIS」の際にチンドン屋さんが街角で撒いたビラの表と裏。


坂入尚文(さかいりひさふみ)さんは1947年生まれ、東京芸術大学彫刻科を中退し、職を転々とした末に、同じ彫刻科の先輩の誘いに乗って見世物の世界に飛び込んだのが「間道」すなわち裏街道を行く人生の始まりだった。当時の心境を「見ず知らずの世界に入って行くにはそれまでを切り放すようなスピードが要求される。下手な思考はそれを止めるようなものだった」と語っている(21頁)。一旦は裏街道から抜けて、房総半島の三芳村で百姓生活に身を投ずるも、結局は再びテキヤとして裏街道に舞い戻った。それが三十歳過ぎた頃だった。それ以来、飴細工師として裏街道を三十年以上歩み続けている。1994年には日仏文化交流の一環として企画されたイベント「縁日風景 '94–PARIS」を豊富な人脈を生かして成功に導いたことで一躍名を馳せ、外務省などから再三海外公演の打診が続くも、二度と同じことはしたくない、とすべて断ったという。本書にはそんな破天荒な半生が見事に綴られている。本書の副題は「見世物とテキヤの領域」とあるが、本文は「I 見世物小屋の旅」「II 百姓の旅」「III テキヤ一人旅」の三つの章から構成されていて、「百姓の領域」についても村八分ならぬ村七分に遭った経験など、興味深い話が色々と書かれている。しかし、圧巻はやはり間道を行く旅の話である。


坂入尚文さんのテキヤ一人旅は基本的に祭りを追う旅である。

 毎年、吹きさらしに震える正月の商売を終えて、三月、東京深大寺のだるま市を過ぎる頃になると気もそぞろになる。
 もうすぐ桜が咲く。「花」の商売は幸手(さって)の権現堂(ごんげんどう)という江戸時代の小堤、それもなかなかのものだが、落ち着かないのはそのせいではなく、五月末から十月にわたる旅が性に合っているのだろう、なにもかもかなぐり捨てて行く先は北海道の夏、「高市(たかまち)」(露天などの並ぶ祭り。本来、見世物小屋〈高物(たかもの)〉も並ぶ大きなもの)を追う旅。
 それは「テキヤ」(的屋。香具師(やし)ともいう)の「凌ぎ」でしかないとわかっている。ただ、それ以上に流れ果てるような放埒、その中に身を委ねたい気分はほとんど衝動に近い。
 花を追う旅をしていた頃もある。東京の桜が終わるのは四月初旬、山の中を南下して、塩山、高山を経て日本海に出る。桜前線を追って、秋田からまた山中に入り米沢だったろう、ほぼ一ヶ月の満開の桜を見続け、東京青梅の高市に戻るのが四月末日だった。
 こんな旅をしているとトラックの一台が全財産という気楽さがある。夏の旅にトラックを走らせて新潟に着いたのは四、五日前だったろうか。新潟では葉桜の下にトラックを止め、その中で一泊している。
 面白いのは毎年ここで蚊に刺されることだ。葉桜の長細い公園はすでに初夏の趣がある。これからフェリーで北海道へ渡り、東京へ戻るのが九月末、北海道の四ヶ月間で蚊に刺されることは滅多にないのに、東京へ戻った神社の高市で必ず蚊に刺される。まるで空白の旅をしてきたように、薮蚊に刺されていつも思う。
 トラックの荷台には、「三寸(さんずん)」(露天)や「ネタ」(商品)を積んである。着替えも夏から、ときには東京の冬を思わせる寒さに対応できるだけを積んである。そのうえ小さな寝床が作り付けてあるので、疲れればどこででも寝てしまう。
 駅裏、港、町外れ、国道縁(ふち)、ときには居酒屋の前に車を止めて、酔えばそのまま布団にもぐり込む。つまるところ、これが旅だと割り切れば私はどこにいてもかまわない。ついでに自分が何者であろうとかまわない。こんな心地よさがすっかり身についている。(6頁〜7頁)


まるで現代に蘇った芭蕉がトラックで旅するかのようである。ただし、旅とは言え、あくまで間道を行く旅である。坂入尚文さんの旅の深い動機のひとつには「異質へのあこがれ」があったという。しかし、

異質へのあこがれはたちまちに打ち砕かれる。生きるために禁忌を犯す人たちに共感を強くしていった。歴史は異才、異能の人たちをそれまでの私に見せてはくれなかったのだ。
 見世物は底抜けの芸や見る人の胸ぐらを掴むような演出を見せて消えて行く。その人たちと会えたことは私のささやかな勝利だ。まっとうな世の中ではやってられない人たち、遥か彼方にいた異能者たちに会えた。

 旅はまだ続く。(265頁)


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