ある晴れた日曜日の午後、それまで鏡面のように静かだった湖面に、にわかにさざ波が立ちはじめた。風が出てきたのだ。陽光に煌めくさざ波の上に水上自転車に乗った一組の男女の小さなシルエットが見えた。かなり沖に出ていた。二人は岸辺に戻ろうとして戻れず、沖に流されているようにも見えた。おいおい、大丈夫か? とちょっと心配になった。私の心にもさざ波が立った。さざ波とはいえ、風向きによっては、その力はあなどれない。しかし、しばらくして二人は少しずつ方向を変え、岸に向かって漕ぎ出したのを見て、安心した。
さざ波と言えば、私たちが性懲りもなく繰り返す日々の小さな失敗をさざ波に譬えた話を思い出した。
あれから私は、なんと多くの失敗をやらかしてきたことだろう。思うだけで気が遠くなる。落としもの。忘れもの。見過し。乗り過し。書き損じ。打ち損じ。サードゴロエラー。器物損壊。自己損壊。激昂。いうべきだった一言。いわなければよかった一言。エンスト。
そうしたものは、今日もやったし、明日もやるだろう。だが、年をへるうちに、失敗というものとのつきあいかたも少しは分かってきたかな、と思えるときがある。
さざ波のように寄せては返す日々の失敗は、大きな失敗の波を避けるための避難訓練、と思ったほうがいい。だれも失敗から逃れることはできないんだから、失敗をなくそうなどと思うよりも、失敗をどううまく乗りこなしていくか、と考えたほうがよほどいい。平出隆「はじめての失敗」より、『ウィリアム・ブレイクのバット』(幻戯書房、2004年)所収。
冒頭の「あれ」とは、「私」が三歳のときにしでかした「人生最初の失敗」を指している。
手にしているのは、木の船だった。流れは澄み切って冷たそうだった。私は三歳だった。家の前の道を渡ったところに、小川があった。山ふところを出てきたばかりのせせらぎの上に、私はそっと、それを浮かべようとしていた。
それが私が記憶する、人生最初の失敗である。
そこに船を浮かべれば次に何かが起こるということは、むしろ全身で分かっていた。だが私は陶然としていて、自分の手をとどめようがなかった。それほど、前の晩にだれかに貰ったばかりのおもちゃの木の船は魅惑的で、小川の水は清らかだった。
船には水、と思ったのか、こらえきれずその朝ひとりで家を出て、波に浮かばせた。それはあっという間に私の視界から、左の下流へと消えてしまった。(同上)
なるほど。著者は、木の船を小川に浮かべて失ってしまったという「小さな失敗」がもたらした後悔は、例えば、自分の体を川に浮かべて失ってしまうという「大きな失敗」を避けるための「避難訓練」になったと示唆しているのかもしれない。
しかし、幾つになっても、自分の体を川に浮かべてしまいそうになることを著者は否定しないだろうという気がする。