深山烏揚羽



廃庭を覗くとかならずミヤマカラスアゲハ(深山烏揚羽, Alpine black swallowtail, Papilio maackii)がいる。一匹のときも、二匹のときも、三匹のときもある。今朝は一匹だった。庭の半分を埋め尽くさんばかりに咲き乱れるクサキョウチクトウ(草夾竹桃, Garden phlox, Phlox paniculata)の花から花へと飛び回り、懸命に密を吸っている。フロックスの茎はアゲハの体重を支えきれずに傾くため、アゲハは花に止まることはできず、脚をつけたままホバリングするように細かく羽ばたき続けている。ふとその音が聞こえないことを不思議に思う。静まり返った廃庭に、黒いシルクかベルベットの、艶かしく濡れ光りするアゲハの翅がいっぱいに広がり、私は全身をその翅で撫でられているような錯覚に陥る。向こうはこちらに気づいている。近づきすぎるとふわっと舞い上がり、庭の上空をしばらく旋回して、私の頭を掠めるように舞い降りてきて、ちがう花に向かう。廃庭にいる間、私は完全にアゲハの虜である。捕まえようと思えば、捕まえられる距離にまで近づくことはできる。だが、捕まえようとは思わない。捕まえてしまえば、失われてしまうものがある。