迷いは迷いのままに let it go where it will


Christophe Coënon, Photographie

私の経験では、旅人は一般に道について困難を誇張する。ほとんどの悪と同様に、困難は想像上のものである。なぜそんなに急ぐのか。道に迷った者が自分は道に迷っているのではないと結論を下したのなら、彼は気が転倒しているのではなく、いつもの靴をはいて自分が今いるところにまさに立っているのである。しかも時間が続く限りそこで生きてゆくだろう、それに迷っているのは自分ではなく、自分を知っている土地のほうだ。こうなると不安や危険が消えることだろう。自分で立つのであれば、私は孤独ではない。宇宙の中でこの地球が回転している場所を誰が知ろう。迷ったとあせったりせず、迷いはなるようにならせておこう。(H・D・ソロー著、山口晃訳『コンコード川とメリマック川の一週間』212頁)

So far as my experience goes, travellers generally exaggerate the difficulties of the way. Like most evil, the difficulty is imaginary; for what's the hurry? If a person lost would conclude that after all he is not lost, he is not beside himself, but standing in his own old shoes on the very spot where he is, and that for the time being he will live there; but the places that have known him, they are lost, ––how much anxiety and danger would vanish. I am not alone if I stand by myself. Who knows where in space this globe is rolling? Yet we will not give ourselves up for lost, let it go where it will.Henry David Thoreau, A Week on the Concord and Merrimack Rivers, LA.*1, p.47)


邦訳にちょっとひっかかったこの一節を、「旅人」を「われわれ」に、「道」を「人生」あるいは「生き方」に、「土地」を「他人」や「世間」に置きかえて、以下のように敷衍しながら読んでいた。


普通、迷いというと、自分を見失うことだと思われている。しかし、そうではないはずだ。迷うのは真剣に生きている証拠で、迷うほどに真剣に生きているあなたは、赤塚不二夫じゃないが、それでイイのだ。あなたが自分自身で立っている限り、あなたは自分自身と共にあり、決して独り(alone)ではない。それだけで十分ではないか。迷い(lost)そのものについて言えば、実はあなたのことを知っていると思っている他人の方があなたを見失っているのだ。あなたが自分自身を見失うことがあるとすれば、それはあなたがあたな自身にとって「他人」に成り下がったときだけだ。あなたはあなた自身にとって「他人」に成り下がってはいけない。その意味であきらめてはいけない。実際にソローの ‘we will not give ourselves up for lost’ という表現には、自分自身が失われて助からぬものとして諦めるようなことはしてはならない、というハードな意味を感じる。それに続く、‘let it go where it will’ は、迷いなんか放っておけ、ということだろう。たとえ他人があたなを見失ったとしても、あなたはあなたが今立っている場所に毅然と立っていればいい。それでイイのだ。迷いは迷いのままに。

*1:Henry David Thoreau, A Week on the Concord and Merrimack Rivers; Walden; or Life in the Woods; The Meine Woods; Cape Cod, The Library of America, 1985