母なる記憶の中で


川口有美子著『逝かない身体 ALS的日常を生きる』(医学書院、2009年)asin:4260010034


川口さん、渾身の著作を読ませていただきました。ALS患者と介護者が置かれている、というより追い込まれる状況とその中での命をめぐる孤独な闘いと共闘の貴重な記録だと思います。本書のカバーに使われた川口さんがお母さんの告別式の日の夕方に撮られた路地の夕焼けの写真になぜかつよく惹かれました。帯に記された「ALSは、終わらない夕焼けだと思う」という言葉や最終章末尾のお母さんの追想の言葉に、ALSやTLSは人間にとって決して例外的な病状ではなく、人間という形をとった命の根源的な姿を暗示しているように感じました。思うに、私たちは日頃動物や不動の植物と当たり前のように非言語的コミュニケーションを行っています。人間同士だって、実はそうです。にもかかわらず、キャッチボールのようにイメージされた言語的コミュニケーションや目立った身体的反応だけが意思疎通の、下手をすると生きていることの証しであるかのような大きな誤解が罷り通っている。それにしても、「患者を哀れむのをやめて、ただ一緒にいられることを喜」(201頁)ぶという心境に到達することは並大抵のことではないと思います。そして、ふと思いました。川口さんがそこに到達しえたのは、もちろんそれだけはないと思いますが、お母さんが残してくれた記憶が大きいのではないか、と。それが夕焼けの写真に写っているように感じました。


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ALSとTLSに関するメモ:


What’s ALS for me ? (川口有美子さんのブログ)から

啄木の歌はALSの人が詠む歌みたいです。

悲しき玩具      石川啄木


人間のその最大のかなしみが
これかと
ふっと目をばつぶれる。
呼吸(いき)すれば
心にうかぶ何もなし
さびしくも、また、眼をあけるかな。
この四,五年
空を仰ぐということが一度もなかりき。
こうもなるものか?
もう嘘をいわじと思いき
それは今朝
今また一つ嘘をいえるかな。
何となく。
自分を嘘のかたまりの如く思いて
目をばつぶれる。
ふるさとの寺の畔の
ひばの木の
いただきに来て啼きし閑古鳥
新しきインクの匂い、
目に沁むもかなしや。
いつか庭の青めり。


悲しき玩具(「What’s ALS for me ?」2010-07-22 )


小長谷百絵、川口有美子「ALS(筋萎縮性側索硬化症)のTLS(totally locked in state)にある患者との意思疎通に関する研究 ―介護者へのインタビューから」 からの部分的引用。

筋萎縮性側索硬化症(以下ALS)は、進行性の難病で一般に3〜5年で呼吸筋麻痺により死亡するといわれているが、近年日本では、国の医療制度の改革や、医療技術の発達により、在宅で長期に人工呼吸器(以下呼吸器)の使用が可能となりALSにおける呼吸筋麻痺はendpointではなくなった。このように人工呼吸器を装着することによってALSの長期生存が可能になると、ALS患者は、眼球運動は侵されないとされてきたが、呼吸筋麻痺後も呼吸器を装着し生活を続ける約1割の患者が、その経過中で、眼球運動も含めた全随意筋麻痺により、「完全な閉じ込め状態=totally locked-in state(以下TLS)」になることがわかってきた(Hayashi H et al、2003)。TLSは、ALSの臨床病理学的に進行した状態の表現の一つで、随意的な身体運動系麻痺と、情動運動系麻痺によっておこり、全ての、目に見える運動表現ができなくなった、完全なコミュニケーション障害を意味する。


患者の存在は、家族や身近なものにとってコミュニケーションが取れることが、存在の本質ではない。


患者は、随意神経系によって行われる言語的コミュニケーションには限界があるが、介護者は自律神経系によって行われる非言語的コミュニケーションに耳を傾け、コミュニケーションが取れていた時期の出来事を手がかりとして、不安、恐怖、喜怒哀楽を読み取り、それらの意味を探り、患者に返すというコミュニケーションを行っていると考える。


TLSにある患者は、脈拍、顔色、血圧、気管内分泌物の量、流涙など自律神経系の表現力を使ってコミュニケーションをとっており、全身の筋肉の動きは止めてしまっても、患者は豊かな情動をもち、その自立性は損なわれていないことがわかった。介護者は患者とコミュニケーションが取れた時期の経験や患者の性格などと照らし合わせて、これら自律神経系のサインを解釈して介護内容に反映させていた。


参照