「さいたま熱中症死の76歳」に思う

たかが結婚式にとんでもない額の金と恥知らずの大勢の人間たちが動く馬鹿丸出しの光景がある一方で、ライフラインさえままならない中で人がひっそりと死んで行く痛ましい光景がある。



この新聞記事では「炎暑が牙を向いた」という安易な文学的表現が使われているが、そこに至るまでに牙を向いたのは炎暑だけではあるまい。しかも自分の牙が自分に向けられることだってある。この記事を読みながら、二、三、ひっかかることがあった。亡くなった男性は一人暮らしではなかった。同居する息子がいたにもかかわらず自宅で熱中症でなくなってしまったということが一つ。そして二つ目は、大工だった男性が三十数年前に妻、長男とここに引っ越してきた翌年に妻が亡くなり、近所との交流が途絶えたということ。さらに三つ目は、男性が十年ほど前に役所で生活保護を申請したが、年下の職員にむげに断られ、二度と足を運ぼうとしなかったということである。寡黙で不器用でプライドの高い人だったのだろうと想像する。だが、どこかで何とかなったのではないかと思わずにはいられない。なぜ? と問わずにはいられない。


孤独は実存的に当たり前だが、社会的に(この国では世間的に)孤立、孤絶してしまうことは危険だ。しかもいわゆる父子の間でさえ、孤立の輪が重なっているように見えるのは例外的なことだろうか。そこには恥と表裏一体のプライドが、なりふりかまわず逞しく生きる力を削いでしまっている様が垣間見える気がする。なぜ、とにかく病院に搬送しなかったのか。なぜ、奥さんが亡くなった後、近所との交流が途絶えねばならなかったのか。なぜ、役所に何度も足を運ばなかったのか。いや、かくいう私がもしその男性の立場だったなら、同じように近所と交流せずに、役所にも足を運ばす、長男とまともに会話もせずに、孤立、孤絶を深めて行ったかもしれないとも思う。長男はいみじくもこう語ったという。「ある程度元気なら大丈夫だが、具合が悪くなると大変だ……」。彼の言葉は、この国では、極めて異常なことに、ある程度元気な人間しかまともに生きられないことを物語っている。しかもそこには元気ではない人間、具合が悪くなった人間を見捨て、切り捨てようとする狂った発想も潜んでいる。だが、それは誰にとっても自分の首を締めるという意味でも明らかに病んだ発想である。