ムグンハ(無窮花)の花の咲くころ


ムクゲ木槿, Rose of sharon, Hibiscus syriacus


毎朝、町内のあちこちでムクゲ木槿)の花が目に留まる。今年は7月23日に初めて見て以来、散っては咲き、散っては咲くのを毎朝見てきた。オーソドックな一重の紫の他に八重の花や、純白の花もある。なかでも一番目を惹かれるのは、鮮血が滲んだような深紅の斑のある特に白花である。見る度に、一瞬強く胸を締めつけられるような気がする。どうしてこんな血のような深紅を滲ませる必要があるのかとムクゲにとっては筋違いの疑問が浮んだりもする。


ところで、金賛汀氏の『朝鮮人女工のうた』(岩波新書、1982年、asin:B000J7LIYQ)の中に、このムクゲが「ムグンハ(無窮花)」という朝鮮名で登場するくだりがある。最初はその意味がよく分からなかった。

 岸和田市大阪府)は三層のお城の天守閣が広大なお堀の水に美しく映える城下町である。この地にあった岸和田紡績の各工場で、大正の中頃から昭和の初期にかけて数万に達する朝鮮の娘たちが働いていた。工場での苛酷な労働と劣悪な労働環境のもと、この異国の地で人知れず死んでいった朝鮮の娘たちの遺体が岸和田市下野町の墓地に埋められているという話をかつて岸和田紡績で働いたことのあるハラボジ(おじいさん)から聞いたのは、岸和田紡績の朝鮮人女工の調査を始めて七年ぐらいの歳月が経った1981年の春であった。…墓地は人家が密集する街中に、そこだけがぽかんと空地になって広がっていた。無秩序に大小の墓石が乱立し、無数の石の行列が奇妙な乱雑さをかもしだしていた。ひっそりとしたひなびた墓地という予想と違っているのにとまどいをおぼえながら、さてどうしたものかと一万体はあろうかと思われる無数の墓石を困惑した思いで見つめた。…昭和の初期までは墓地に隣接して焼場もあったが、お寺はなく、誰がどのように埋葬されているかの記録はいっさいない。自分も管理人になっているが、誰がどの墓地を所有しているのかさえもわからない。昔、紡績工場に働いていて不幸にして亡くなった娘たちの多くがこの墓地に埋められたが、それも皆、無縁仏であろう。岸紡は日本の全土から娘たちを女工として募集してきた。それらの女工には近郊の娘たちは少なく、ほとんどが他県の娘たちで、幸薄く亡くなり遺体の引き取り手のなかった女工も数多くいて、それが無縁仏として今も残っているという。「あんた、墓地にたくさん石ころみたいな小さな墓があったのを見たでしょう。あの墓が女工の墓ですねん」とTさんは言った。そのとき、春のやわらかい陽光のなかにならんでいた五つの小さな墓を鮮やかに思い出した。あれがそうなんだろうか、あの石が……お墓か……。そんな思いが脳裏をいきかう。…日はすでに西に傾き、墓地を訪れる人とてなく、静寂のなかに石の大群が漂っているようであった。無銘の小さな墓石が並ぶ場所を訪ねて、墓地のあちこちを歩き回った。一列に並んだ小さな無銘の墓石の前に細いビニール管が埋められ、一本の花がさし込まれていた。花は枯れ、しおれていた。無縁仏にあわれ心を持つ心やさしき人が、故人のこの世での不幸な生活をふびんに思い花をそえたのであろうか。この小さな石ころが、かつて故郷で生きる糧もなく、生きんがために、この異国に、もっとも苛酷な生を強いられた紡績女工としてやってきた朝鮮の娘たちの墓であるのかもしれない。墓石が西日にきらっと光った。無惨にも名もなく異国の土になった朝鮮の娘たちの無念さが、西日の光をあびつつ音をたてて小さな墓石から立ちのぼっているような気がした。またいつの日か、ムグンハ(無窮花)の花の咲くころ、その花を持って、ふたたびこの地を訪れようと思った。

  金賛汀朝鮮人女工のうた』1頁〜6頁


最初は「ムグンハ(無窮花)の花の咲くころ」、つまり夏にまた来よう、という単純な意味だと思った。だが、夏を意味したいのであれば他にも相応しい花はいくらでもある。なぜムグンハ(無窮花)なのか? と気になりはじめた。あっ、もしかしたら、と思って改めてムクゲについて調べてみたら、案の定、목근(木槿; モックン)あるいは무궁화(無窮花; ムグンファ)は、韓国の国花であるばかりでなく朝鮮全体を象徴する花らしいではないか。散っては咲き、また散っては咲くその生命力の強さを、朝鮮人の歴史と性格に喩えることが多いという。そんなことさえ知らなかった。そうだったのか、と腑に落ちた。「またいつの日か、ムグンハ(無窮花)の花の咲くころ、その花を持って、ふたたびこの地を訪れようと思った」の一文には、とくに「ムグンハ(無窮花)の花」には、金賛汀氏の万感の思いが籠められていたのだった。