動いている庭


Gilles Clément jardinier, le jardin en mouvement, je jardin planétaire et le tiers paysage.


港千尋『パリを歩く』(asin:4757150784)で紹介されているフランスの造園家ジル・クレマンの「動いている庭(le jardin en mouvement)」は興味深い。その概念は長年にわたる空き地における植物の遷移の観察からうまれたという。ジル・クレマンは一般には「雑草」としてひとくくりにされる植物群が、一定の空間のなかで場所を変えてゆくことを実際に造園術に取り入れた。

 ここには「雑草」にたいする発想の転換が含まれている。庭を庭として維持するには、雑草の駆除が欠かせない。だが視点を自然の側に置いてみるとどうなるだろう。その環境にいちばん適しているのは、そこにもともとある草ではないか。そうだとしたら、造園のために持ち込まれる花のほうが、環境に負荷を与える「雑草」となる。気象と土壌の条件を優先すれば、空き地に生えてくる雑草を茂らせた庭が理想的な庭ではないか。だがそれは庭と呼べるだろうか。(202頁)


ジル・クレマンが設計した庭園や公園を実際に訪れた港千尋は大きな衝撃を受ける。他の庭園や公園とは植物相が大きく異なり、色鮮やかな花はほとんどなく、微妙な色調の草がミックスされているため、どこに人間の手がかかっているのか一見してわからないほど、「空き地」か「薮」に近い、やや「寂しさ」を感じさせる風景であったと述べている。だが、それはこれからの庭園や公園の設計が基礎に据えるべき「空き地の思想」の表れではないかと示唆することを忘れない。

 一年性の草花には少し離れたところに次世代のコロニーをつくる。それらをどう刈り取るかは、人間の判断である。自然が自らコントロールする動きを受け入れつつ、時間とともに少しずつ場所を変えてゆく色彩が、「移動する庭」なのである。
…この庭には、自然が本来もっている流動性と、それを前にした人間が想像力を働かせる「余地」が残されている。都市に特有な気象や土壌の条件のもとで繰り返される、試行錯誤としての庭である。
 対象との余地を残しながら、プロセスを大切に見てゆくことを、「空き地の思想」と呼んでもいいだろう。それは建築家や都市計画家だけのものではない。子どもはもともと空き地を見つけて遊ぶものであり、幼年期にとっての「庭」はそうした場所につくられるだろう。(204頁)


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