幻のイマージュ L'Image fantôme

Hervé Guibert - La Pudeur ou L'impudeur



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フィルムの現像は、夢を見たあとの目覚めに似ている。

 エルヴェ・ギベール『幻のイマージュ』(堀江敏幸訳、集英社、1995年)、18頁


デジタル・カメラとて事情は変わらない。化学的処理が電子的処理に置き換えられただけで、カメラからパソコンに移行したデータがディスプレイ上に像として浮かび上がる瞬間は、まさに「夢を見たあとの目覚めに似ている」。上の引用は、実はフィルムの空回りによって念願の母の像が現れるはずのフィルムが感光せずに空白であるのを見た瞬間に、「悪夢から目覚めるときと、ちょうど逆の動き」を、つまり、目覚めたら、悪夢の現実が待っていた、という文脈に置かれた言葉である。しかし、デジタル・カメラでも、等価の経験はいくらでもある。写真を撮ることと見ることとの間には断絶のような深淵が覗いている。自分で撮ったはずの写真でさえ、よそよそしく感じられないような写真はない。にもかかわらず、愚かな私は、撮ることと見ることがいつか幸せに結婚できる日が来ることを信じるふりをして、写真を撮り続けるのだろう。


一昔前、日本でもエイズがマスコミで頻繁に取り上げられたころ、久米宏がニュースキャスターを務めていたTBSの報道番組で、エルヴェ・ギベール(Hervé Guibert, 1955–1991)エイズで衰弱してゆく自身の姿をビデオカメラで撮り続けたドキュメンタリー『慎み、あるいは慎みのなさ』(La Pudeur ou L'impudeur, 1992)の抜粋版が放映された。俳優の奥田瑛二によるナレーション(吹き替え)の声が、死がひたひたと近づいてきて、最後にはジギタリスの大量服用によって自殺に近い死を選んだギベールの生き様に深く共鳴しているように聞こえた。映画の手法を参考にしたと伝えられる折口信夫の「死者の書」のイメージが急接近してくるのを感じていた。慌ててVHSビデオに録画した。それを授業の題材として使ったこともあった。そのVHSビデオは学生たちの手から手へと渡り、いつの間にか行方不明になった。


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