言語哲学入門

受講生の皆さん、今晩は。

唐突ですが、皆さんはリラックスできて、かつ、集中を持続できるような仕事(勉強)環境を持っているでしょうか。最近はパソコンとインターネットの普及のおかげで、そのような環境を自分のライフスタイルに合わせてカスタマイズし、快適な環境を意識的に作っている人は増えているような気がします。しかしそれはパソコン上でだけ問題になることではなく、どんな生き方をしようとも本質的に重要な問題だと私は考えています。それはパソコンとは無縁な仕事をしている人にとっても当てはまることですし、特別な個室を所有しているか否かには関係のない、そういう意味では必ずしも物理的な環境ではない、精神的な環境であると言えます。

頻繁に旅や移動を繰り返したヴィトゲンシュタインは常に一冊あるいはそれ以上のノートを携行していました。彼の仕事は考えたことを記録することでした。彼にとってはノートを必ず持ち歩くことが、いつどこででも、たとえ戦場でさえ、そこに快適な仕事環境を実現することに直結していたのだと思います。ノートの中に彼はそれこそワールド・ワイドな空間をいつでも瞬時に立ち上げることができたのだと想像します。彼が現代に生きていたら、ノートパソコンを持ち歩いたに違いありません。

明日はそのようなヴィトゲンシュタインが生涯貫いた仕事のスタイルから『論考』の特異な構造に光を当てたいと思っています。

(蛇足:かく言う私は、この「余剰日記」もその一部ですが、パソコンとインターネット(ウェブとメール)を利用したデジタルな仕事環境を意識的に作ってきました。それと同時にいつも数冊の手帖とカメラを携行し、アナログの仕事環境をいつでも始動できる態勢を持っています。ですから、この世からパソコンとインターネットが消えても、不便にはなるかもしれませんが、本質的には支障はありません。いつでも紙と鉛筆の世界に戻ることができます。)

専門演習

参加者の皆さん、こんにちは。

ヴィム・ヴェンダース監督『NOTEBOOK ON CITIES AND CLOTHES』(邦題『都市とモードのビデオノート』)を観て、改めてどうでしたか。中古品だから仕方のない面があるのですが、ちょっとサウンドノイズがひどかったのは残念でした。が時間がたつにつれ不思議とノイズもまたヴェンダース独特の映像にマッチしているかなと感じた人もいたかもしれません。それにしてもノイズと英語の両方と闘いながらのちょっと疲れる鑑賞でした。

授業の中で話したように、ヨージ・ヤマモトという人間に関しては、映画の中でスタッフに囲まれて仕事をする彼の姿や彼自身がヴェンダースの質問に導かれながら、時には自由に逸脱しながら語る興味深い言葉から、よく分かったと思います。根深い無国籍感覚のこと、近所の女たちの服の仕立て仕事で家計をささえ彼を育てた母のこと、いつも仕立て直し中の衣服に囲まれて生活していた幼少期のこと、戦死した父や戦友たちの「戦い」を彼はどこかで引き継いでいること、自分はファッション・デザイナーではなくドレス・メーカーにすぎないこと、作ること、手作業が好きなこと、人間の体にフィットする服は「非対称」でなければならないこと、未来は信じないこと、過去を引きずりながら生きている現在にはやく終わりが来ないかと感じていること、などなど。ひとつひとつがさらに掘り下げるに値するテーマでしたね。

他方、ヴェンダースの編集術もなかなか興味深いものでした。ヨージ・ヤマモトの「思想」に関して、比較的一般的な事柄については、決して流暢とは言えない英語で語らせ、最も肝心なところは日本語で語らせ、しっかりとした英語字幕をつけていました。映像に関しては、静かな時間がながれるインタビュー映像とそれとは対照的なTOKYOとPARISというふたつの無国籍的な都市の昼と夜の両方の映像(日本の騒音ならぬ騒色にみちた景観が実は色が消える夜に見違えるほど美しく写ることに驚きましたが)を時に巧みに併置しながら、正にタイトルにある通り、「都市」と「服」という人間にとっての基本的な造形であり表現であるものの本質的な関係を浮き彫りにしようとしているのが感じられたと思います。ヴェンダースにとってはそのような認識を「服」を通して語り合えるデザイナーはヨージ・ヤマモトしかいなかったのかもしれません。

ところで、私がいつも感心し心惹かれるのは、ヴェンダースも何度も口にしていたクラフツマンシップです。職人の熟練した技能。時に素早くしかし精確に動く手、また時には素材に対して限りなく優しく触れる手の仕事。ヴェンダースがヤマモトの非常にオープンな仕事環境に触れながら、秘密にしなくていいの?とショービジネスの世界に対する姿勢を尋ねた場面で、ヤマモトは、そんな必要は無いよ。見たってだれもコピーなんかできないから。とあっさりと答えていました。そこには熟練と熟練故に可能になる飛躍の両方に対する静かな自信が垣間見えました。

最後に、ものを作ることを通して、ヴェンダースの場合は「映像という言語」によって、ヤマモトの場合は「服という言語」によって、深く突き動かされながら、国境とか国語とかいう境界をやすやすとではないにしても超えていると思います。何かに集中しているときに私たちが降りていく場所にはどんなボーダーも存在しないのです。その体験を訓練に変えて、自分を鍛えていけば、どこへでも行けるし、どこででも生きられる、そういうことだと思います。


次回は「変身」をテーマに身体そのものの芸術、冒険の一端に触れる予定です。

デジタルメディア入門

受講生の皆さん、こんにちは。

メインサイトの「参考書籍」にも載せた原研哉著『デザインのデザイン』について、伊藤俊治さんによる興味深い書評があります。その内容はここ数回の授業で私が語ったことととかなり深く共鳴するものです。教育的文脈における引用であると同時にクレジットも表記することで、著作権問題を回避して、ここにその書評の文章を掲載します。

<『デザインのデザイン』 原研哉著---本質を真摯に探求

 デザインとは何なのか。当初本書の題名は『それはデザインではない』になるはずだったという。ここ数年異常ともいえるデザインブームで、様々な一般メディアがデザイン特集を組んだり、デザインの最新動向を伝えている。しかしそうした流行とは裏腹にそこで語られていることはひどく表面的で貧しく、時にはデザインの本質とは正反対のものがデザインと呼ばれている。著者はそうした状況を苦々しく眺めながらそれでもデザインについて手探りで真摯(しんし)に探求してゆくうちに、これまで誰もたどりつけなかった手ごたえのあるデザイン思考にゆきつく。
 例えばコップをつくることがデザインではない。コップとは何かを問いかけ、コップを自己と社会の鏡として認識し、コップが人と世界の関係を変える可能性について考え、その本性を見つけてゆくのがデザインなのだ。つまりデザインにおいては存在論(私たちは何か、世界とは何か)と認識論(私たちはどのように知るか)とが、しっかりとむすびついていなければならない。
 デザインとはただものを構想し、計画し、つくりあげることではない。デザインとは人と人の間にある、人と世界の間にある関係の本質に静かに手を伸ばしてゆく試みである。人の心や体が時代や社会に引き裂かれそうになる時に、その悲鳴や言葉にならない叫びを聞きとり、消え入ろうとする繊細な感受性や美意識にあらたな形を与えながら人と世界をともに生き返らせようとする冒険である。その時、デザインは単なるグラフィックやプロダクトではなく、人の心と体の状況をあらわす方程式のようなものとなり、その形そのものが人の精神や記憶をとどめ、過去や未来を現前化させる役割を果たすことになるだろう。本書の行と行の間にじっと耳を澄ますと、生活という時間の堆積(たいせき)のなかで顕在化されなかった生きることの未知の喜びが、思いもかけない形で浮かびあがってくる。
(評者・伊藤俊治東京芸術大学教授) / 読売新聞 2003.11.30)>

どうですか。特に最後の段落をじっくりと読んでください。