受講生の皆さん、こんにちは。
メインサイトの「参考書籍」にも載せた原研哉著『デザインのデザイン』について、伊藤俊治さんによる興味深い書評があります。その内容はここ数回の授業で私が語ったことととかなり深く共鳴するものです。教育的文脈における引用であると同時にクレジットも表記することで、著作権問題を回避して、ここにその書評の文章を掲載します。
<『デザインのデザイン』 原研哉著---本質を真摯に探求
デザインとは何なのか。当初本書の題名は『それはデザインではない』になるはずだったという。ここ数年異常ともいえるデザインブームで、様々な一般メディアがデザイン特集を組んだり、デザインの最新動向を伝えている。しかしそうした流行とは裏腹にそこで語られていることはひどく表面的で貧しく、時にはデザインの本質とは正反対のものがデザインと呼ばれている。著者はそうした状況を苦々しく眺めながらそれでもデザインについて手探りで真摯(しんし)に探求してゆくうちに、これまで誰もたどりつけなかった手ごたえのあるデザイン思考にゆきつく。
例えばコップをつくることがデザインではない。コップとは何かを問いかけ、コップを自己と社会の鏡として認識し、コップが人と世界の関係を変える可能性について考え、その本性を見つけてゆくのがデザインなのだ。つまりデザインにおいては存在論(私たちは何か、世界とは何か)と認識論(私たちはどのように知るか)とが、しっかりとむすびついていなければならない。
デザインとはただものを構想し、計画し、つくりあげることではない。デザインとは人と人の間にある、人と世界の間にある関係の本質に静かに手を伸ばしてゆく試みである。人の心や体が時代や社会に引き裂かれそうになる時に、その悲鳴や言葉にならない叫びを聞きとり、消え入ろうとする繊細な感受性や美意識にあらたな形を与えながら人と世界をともに生き返らせようとする冒険である。その時、デザインは単なるグラフィックやプロダクトではなく、人の心と体の状況をあらわす方程式のようなものとなり、その形そのものが人の精神や記憶をとどめ、過去や未来を現前化させる役割を果たすことになるだろう。本書の行と行の間にじっと耳を澄ますと、生活という時間の堆積(たいせき)のなかで顕在化されなかった生きることの未知の喜びが、思いもかけない形で浮かびあがってくる。
(評者・伊藤俊治(東京芸術大学教授) / 読売新聞 2003.11.30)>
どうですか。特に最後の段落をじっくりと読んでください。