永遠のしっぽ

昨日もちょっと書いた、『横浜逍遥亭』の中山さんによる茂木健一郎著『生きて死ぬ私』の見事な推薦文のなかで、ずっと私の頭の中というか耳(声ではないので耳というのは変だと思われるかもしれませんが、なぜか耳に聞こえるような感覚があります。脳科学的に何か根拠がありそうな気もします。)のあたりで響きつづけている言葉があります。
「永遠のしっぽ」。
これは中山さんが茂木さんの「文体」の秘密に深く触れた、本当に絶妙な表現だと思います。書き留めておかないわけにはいかない、と思いました。
そして、実は私にとっては正にその「永遠のしっぽ」にあたる、茂木さんのブログ「クオリア日記」の昨日のエントリー内の次の言葉が私の中で大きな波紋を広げています。
http://kenmogi.cocolog-nifty.com/qualia/2006/08/post_d370.html

私は、常々、
 隣国のことをわるくいって澄ましているひとを
みると、
 きっと隣国とつきあわなくてもすむ人なんだな、
と思っている。

 同じ人間、何らかのかかわりがあったら、
そう簡単に切り捨てられるものではない。
 日本は島国だから、ときどき自分たちだけで
やっていけると思う人たちが現れるが、
 実際には世界は相互依存していかないと
やっていけない。

これは、直接的には中国、韓国、ロシアとの関係を巡る国内の最近の論調に言及したものですが、その含意するところは非常に深い、すなわち、そこに提示されている「考え方」は、それこそ私たちが直面する現実の多くの問題の根に光をあてる、中山さんが「永遠のしっぽ」と名付けた「普遍的な」ものだと思います。例えば、隣国を「隣人」、日本を「日本人」、島国を「島国根性」と読み替えてみるだけで、その射程の長さは分かります。さらに、その考え方を「生命」や「脳」や「インターネット」の議論に応用することさえできそうです。翻って、近隣諸国との関係だけでなく、アメリカとの関係を考えるさいにも有効な基本的フォーマットさえ提供してくれそうです。こんなに応用が利く考え方というのは、「基本」がしっかりとおさえられていることと、多層な現実の、各層への配慮がよく行き届いていなければ、生まれないものだと思います。