鬱と美

『横浜逍遥亭』の中山さんが、アップル銀座で今宵行われた対談<茂木健一郎×菊地成孔>に行かれたとのこと。
茂木健一郎さんと菊地成孔さんの対談に行く」http://d.hatena.ne.jp/taknakayama/20060905
非常に羨ましい。中山さんは、茂木サンのしゃべりの凄さに焦点を当てて生き生きとした文体で報告なさっている。そして、嬉しいことに、さすが中山さんは、菊地サンをご存知なかったにも関わらず、「ゲストは音楽家菊地成孔さん。僕は恥ずかしながら今日までどんな方か知らなかった。他人に対する配慮と鋭敏な神経をお持ちの方で、茂木さんの対談相手として実に適切な人選と見えた。」と非常に鋭敏な感覚で書かれている。というのも、実は私はこの対談ではお相手の菊地サンに非常に興味があった、というか、以前から注目していたので、今回の対談も音声ファイルがアップされないかな、と期待していたからでした。

昨年1年間、色々な事が重なって、酷い鬱状態だったときに、偶然知った、菊地成孔(なるよし)さんの「音楽」と「言葉」に救われた、という思い出があります。CDアルバムは有名になった『南米のエリザベステーラー』はじめ全部聴きました。著作も全部読んだ。そして当時夜毎更新されていた驚異的な密度とテンションのウェブ日記も毎日全部読んだ。そうすることで、かろうじて、私は私の精神を保つことができた、そんな時期がありました。菊地さんの音楽と言葉に触れること、触れようとすることの中の一体何が、ある種の抗鬱効果を発揮したのか、言葉では「憂鬱を官能に変える作法」と表現でき、またその作法がアルゼンチン・タンゴに具現されていることは感覚的に分かるのですが、理論的には今でもはっきりとは分かりません。しかし、それから半年以上たって、ごく最近ですが、茂木さんのしゃべり、言葉にも共通のものを感じている自分に気づいたということがありました。しかも、「鬱」と「美」は、最近の脳科学では、非常に深く関連しているらしいということまでは分かっている、ということを知りました。

そういうわけで、私の中では、<菊地成孔×茂木健一郎>の対談の実現は、非常に「象徴的」な出来事だったのです。数日前に『クオリア日記』で対談の予告を見たときには、驚いたと同時に、深い必然をも感じました。本当に聴きに行きたかった。でも行けなかったことは、悪くはないとも思っています。そして、中山さんから僥倖のトラックバックが届いた、という次第でした。中山さんが行ってくれた!という訳の分からない感激の仕方をしています。どうも、お騒がせしました。